あなたは、死後の世界について考えたことがあるでしょうか。「死」という言葉を耳にした途端に「縁起でもない」とか、「そういうことは、老いの境地に入ってから考えたり口にしたりすることであって、今は、一度しかない人生を十分、エンジョイすることに全神経を傾けよう」といった答を即座に思い付くかもしれません。しかし、一生に一度しかない人生だからこそ、悔いのない充実した人生を送りたいと、誰しもが願っているのです。そのためには、私達は、この地上にある「今」という時の間に一日一日をどう生きるか、手にしている所有物をどのように用いて生活するか、について真剣に考えて見る必要があります。
聖書のたとえ話の中に、ある二人の人が出てきます。一人は、金持ちで「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」いました。紫の衣は最高級の服です。柔らかい麻布も舶来の高級品で、それをいつも着ているのは、よほどの金持ちでしょう。彼は毎日ぜいたくに宴会をして怠惰に暮らしていました。一方、この金持ちの門前に、ラザロという貧しい人が、全身を重い皮膚病に冒されて横たわっていました。ラザロは、身を寄せる所もなく、金持ちの食卓から惜しげもなく捨てられる残り物で飢えを凌いでいたのです。しかし、それでいてラザロは、自分自身の境遇を嘆いている様子もなく、金持ちを責めるのでもなく過ごしていました。
やがて、この貧しい人ラザロは死にました。そして、金持ちも死にました。私達は、人間である以上、いつかは皆、死を迎えなければなりません。生前の社会的な地位、立場、裕福な生活を送ったか、貧しい生活を送ったか、に関係なく「死」は全ての人に平等に訪れます。しかし、死んでから後、この二人の受けた扱いには歴然とした差が生じたのです。
貧しい人ラザロは、死んでその魂は天国に連れて行かれました。金持ちの魂は、陰府すなわち地獄に行き、炎の中でもだえ苦しむことになりました。この金持ちとラザロとの間に、生前の生活と死後の生活での逆転が起こったのです。なぜでしょうか。生前金持ちであったことが悪くて、貧しかったことが良い、ということではありません。原因は、生前の二人の「心」にありました。私達人間は、目に映るところ、すなわち外見によって人や物事を判断しますが、神は、その人の心の奥深いところまでご存知です。この金持ちは、生きている間に、自分の欲しい物、望んでいる物は、すべて手に入れたことでしょう。しかし、彼は、これらの物が神から与えられたとは思わないで、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」と思っていたのです。ですから神への感謝の思いもありませんでした。一方、ラザロは、自分がどのような境遇の中におかれても、一生涯、神への信頼と信仰を失いませんでした。ラザロの生涯は、人間的に見れば、決して恵まれたものではなくて、むしろ悲惨なものでした。ですが、ラザロは、神への信仰の故に不平不満を言うことなく、神に信頼して生きた結果、死んで後、祝福を受けたのです。
私達の死後の運命は、「今」この時をどう生きるか、で決まります。神を認めず、信ぜず、自己中心の生き方をするか、あるいは、如何なる境遇におかれても「心」を神の方に向けて、神を知り、信じて生きてきたかどうか、なのです。神を知るための唯一の方法は、神の言である聖書に書かれています。「いつかそのうちに」「もっと歳をとってから」ではなく、ぜひとも、今すぐに聖書をひも解いていただきたいと思います。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐものとなさったではありませんか。」(聖書ヤコブの手紙2:5にある御言です)