タイトル: 善きサマリア人の譬えについて 埼玉県 M・Aさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのM・Aさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しみに聴いています。早速ですが、わたしのくだらない疑問にお答えください。
イエス様のたとえ話で誰もがよく知っている『善きサマリア人のたとえ』についていろいろと考えています。
あのたとえ話の最後で、イエス様は尋ねてきた律法学者に『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』と問い掛けています。『この三人』というのは、当然、祭司、レビ人、サマリア人の三人を指しているのだと今までずっと思って来ました。
ところがこの前、何気なくこの個所を読み返していたら、もう一人の登場人物に気がつきました。それは宿屋の主人です。彼はサマリア人から頼まれて何日か追いはぎに襲われた人の面倒を見た人です。祭司もレビ人も行動としては特別な区別がないわけですから、もし『この三人』が祭司、レビ人、サマリア人の三人を指しているとすると、答えに『祭司』を選んで『レビ人』を選ばない選択肢はありえなくなってしまいます。つまり、『この三人の中で』と問いかけながら、実際の選択肢は善きサマリア人を選ぶか否かの二者択一しかなくなってしまうことになります。けれども、この三人を、レビ人を含めた祭司、サマリア人、宿屋の主人と考えると、三人三様の中から選ぶことになると思うのです。
ところが、さらに面白いことを発見してしまったのですが、イエス・キリストに『隣人』についての質問をしてきた律法学者の答えは、具体的に『サマリア人』とは答えないで、『その人を助けた人です』と曖昧に答えています。当然常識から考えて、『その人を助けた人』イコール『サマリア人』と言う風に今までわたしは思い込んで来ました。しかし、宿屋の主人だってその人を助けた人ではないでしょうか。そして、イエス様ご自身も『行って、あなたもあのサマリア人と同じようにしなさい』とはおっしゃらないで、『行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃるだけで『誰と同じようにしなさい』という部分をはっきりおっしゃっていません。その人を助けた人が宿屋の主人だと思うなら、宿屋の主人のように、また、その人を助けた人がサマリア人だと思うなら、サマリア人のようにしなさいということなのです。
こんなひねくれた読み方はおかしいでしょうか。もし、ここの答えが『サマリア人』しかありえないのだとしたら、わたしは現実の生活の中でいつもこのイエス様の期待を裏切っているように思います。
長くなりましたが、以上よろしくお願いします。」
M・Aさん、お便りありがとうございました。とてもユニークな聖書解釈に目からうろこの思いがいたしました。せっかくのお便りを、ただユニークな聖書解釈だと言ってのけてしまうだけでは、大変失礼だと思いますので、ご一緒に問題点を一つ一つ考えてみたいと思います。
「善きサマリア人のたとえ話」は、よく知られている話ですから、あえて繰り返す必要はないかとも思いますが、ラジオを聴いたいらっしゃる方の中には、まだこのたとえ話をご存知でない方もいらっしゃるかもしれません。簡単に話を要約するとこうです。
このたとえ話は一人の律法学者の質問がきっかけで話されたたとえ話です。その質問とは「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに関して、「わたしの隣人とはだれのことか」という質問でした。
そこで、イエス・キリストは一つのたとえ話をお語りになったのが、この「善きサマリア人のたとえ話」です。
あるとき一人の男が追いはぎに襲われて、半殺しの目にあったまま道端に放置されていたというのです。たまたまそこを通りかかった祭司もレビ人も見て見ぬふりをして通り過ぎていってしまいます。ところがその場を通りかかったサマリア人は彼を助けて宿屋にまでつれていて介抱したのです。翌日、戻る約束をして宿屋の主人にその人を託して出て行った、と言うお話です。
そして、M・Aさんのご質問の中に出てきたように、イエス・キリストは律法学者に対して「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねられたのです。
そこでまず、M・Aさんご自身を含めて、普通に理解されてきた伝統的な解釈では、この三人とは「祭司、レビ人、サマリア人」の三人です。それ以外の選択肢は考えられては来ませんでした。それもそのはずだとわたしは思います。確かにM・Aさんのおっしゃる通り、このたとえ話の中には「宿屋の主人」も登場します。しかし、その登場の仕方は、他の三人とは明らかに違っています。ほかの三人、つまり祭司、レビ人、サマリア人の三名は、自分の意思で何かの行動を具体的にとった人たちです。それに対して、「宿屋の主人」は名前が挙がっているだけで、彼が具体的に何をしたか、あるいはしなかったか、そのことは何も書かれてはいません。つまり、たとえ話の中ではたまたま出てきた登場人物であって、その行動には全くスポットが当たってはいないのです。ですから、イエス・キリストのおっしゃる「この三人」の中に「宿屋の主人」を含めるのは無理があるように思います。
では、なぜM・Aさんはあえてそのようなユニークな解釈の可能性を思いつかれたのでしょうか。もちろん、偶然の発見ということが大きいようですが、そればかりではないように思います。お便りの一番最後のところに記されているように、この「善きサマリア人のたとえ話」はM・Aさん自身にとって実践しなければならない教えとして受け止められているということがあるように思います。あのサマリア人のようにはなれないけれども、宿屋の主人程度の助けならできるかもしれない、そういう思いも見え隠れしている解釈に感じられました。
ただ、このたとえ話の主旨全体から考えると、その答えが「サマリア人」であれ「宿屋の主人」であれ、「その人を助けた人」であればどれも正解のはずです。イエス・キリストがここで願っていることは、「誰がわたしの隣人か」と言うことをあらかじめ決めてから行動することではなく、自分が誰かの隣人となって、その人と関わることなのです。律法学者が「わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねたのに対して、イエス・キリストは逆に「誰がその人の隣人となったのか」を尋ねていらっしゃいます。
祭司もレビ人も誰が自分の隣人であるかを区別していたのです。ですから、隣人ではないあの追いはぎに襲われた人を愛さないとしても、律法違反にはならないという大義名分があったのです。律法は隣人を愛するようには命じていますが、隣人でない者を愛するようには命じていないからです。
しかし、イエス・キリストは発想の転換を私たちに迫っていらっしゃるのです。誰かがわたしの隣人であったりなかったりするのではなく、わたしがその人の隣人になることを求めていらっしゃるのです。
「行って、あなたも同じようにしなさい」とは、わたしたちがだれかの隣人となって、その人に憐みの心を抱き、関わることなのです。
もちろん、イエス・キリストはできないことを求めていらっしゃるのではありません。あの善きサマリア人は自分の仕事を全部キャンセルしてその人を助けたわけではありません。宿屋の主人も託された時間だけその人を看病しただけです。しかし、ほんの一部の関わりであったとしても、その人に関心を寄せ、隣人となって関わりをもつことが大切なのです。
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