BOX190 2006年9月27日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: イエスはご自分を王と自称していたのですか ハンドルネーム・よしさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームよしさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。早速ですが質問があります。
 先日、聖書を読み比べていて気がついたのですが、イエス様の裁判の場面の話です。口語訳のマタイによる福音書の27章11節によれば総督ピラトがイエスに向かって『あなたがユダヤ人の王であるか』と尋ねたのに対してイエスは『そのとおりである』とお答えになっています。ところが新共同訳ではイエスの答えが微妙です。『それは、あなたが言っていることです』となっていて、否定しているようにも受け取れます。
 そう思って他の福音書でも調べてみましたが、やはり口語訳聖書と新共同訳聖書では訳が違っています。マタイもマルコもルカも、そしてヨハネ福音書でさえ、新共同訳聖書でははっきりとした肯定の答えがイエスの口に上っていません。
 これはいったいどういうことなのでしょうか。翻訳の違いにしてはあまりにも意味が違いすぎるような気がします。分かりやすく説明をしていただけると嬉しく思います。」

 よしさん、メールありがとうございました。翻訳聖書を読み比べるというのは、なかなか面白い発見をするものです。聖書の学びを手っ取り早くしたいと思ったときには、いくつかの聖書を読み比べてみると言うのはかなりの助けになると思います。実際、聖書翻訳というのはただヘブライ語やギリシャ語を日本語に置き換えると言う作業なのではありません。翻訳という作業それ自体が、一つの聖書解釈なのです。ですから、いくつかの翻訳聖書を読み比べてみると、個所によってはほんとうに驚くくらいに意味が正反対になってしまうということもあるのです。
 もちろん、翻訳聖書の訳が異なっている場合、その理由は解釈の違いばかりではありません。翻訳の元になっているいわゆる底本と呼ばれるもともとのテキストが違っていると言う場合もあります。ご存知のように聖書にはオリジナルの著者直筆聖書と言うものは、今となっては存在しません。残っているものは数多くの写本やその断片です。それらを収拾し、比較して、どれがもともとのテキストであったのかと言うことを決める学問を本文学と呼んでいます。
 どんな古典文献でも、本文学のお世話にならなければオリジナルのテキストを再構成することはできません。もちろん、著者の直筆のテキストが残っていればこのかぎりではありません。
 ただ、古典文献の中でも新約聖書は優良な写本の数も桁外れに多く、オリジナルな本文の復元は99%以上確かであると言われています。それでも、ごく少数の個所では、本文学の結論の違いで、どちらがもともとのテキストであったかを断定することができない場合があります。その場合翻訳にも影響が出てきてしまうということもあるのです。
 ただし、今回ご質問があった個所は、写本の違いから出てきている翻訳の違いではありません。まさに、本文の解釈の違いなのです。
 では、どのようにこんなにも違う翻訳になるほどの解釈の違いが生まれてきたのかというと、この部分の表現が実は非常に単純な言葉から成り立っているからです。
 マタイ福音書もマルコ福音書も、そしてルカ福音書も、いずれもイエス・キリストのお言葉は「あなたが言っている」というただそれだけのことなのです。ヨハネ福音書はもうちょっと複雑で、「私が王であるとあなたが言ってる」となっています。これはあくまでも直訳です。
 なんだそれなら、新共同訳の聖書が直訳に近いではないかということになるかもしれません。それならば、なぜ、口語訳聖書は直訳風に訳さないで、あたかもキリストがご自分が王であることを肯定しているかのような訳を採用したのでしょうか。

 ついでですので、同じような問題は大祭司がイエスに対して「おまえは神の子、キリストなのか」と詰問した時にもおこっています。イエスの答えは、直訳すれば「あなたが言った」ということになっています。この部分も口語訳と新共同訳では翻訳が天地ほど異なっています。

 さて、「あなたが言っている」「あなたが言った」という表現が、そもそも相手の言ったことを肯定的に受け止めた答えなのか、それとも、否定的な答え方なのか、はたまた肯定とも否定ともとれない曖昧な答えなのでしょうか。その解釈が翻訳に結果となって表れてきているのです。
 結論から先に言ってしまうと、残念ながら解釈が二分するほどに学者の意見も分かれているのです。
 ただここから先はギリシャ語の文法の話になってしまうので、今回はあえて細かい説明を省略させていただきます。
 よしさんに是非覚えておいていただきたいことは、まさに、この個所をどう訳すかで、イエス・キリストは大祭司やピラトに対して、ご自分を王やメシアとして肯定なさったのか、否定なさったのか、あるいは肯定とも否定とも取れないお答えをなさったのか、その違いが出てきてしまうということなのです。
 確かに、イエスの罪状書きは「ユダヤ人の王ナザレのイエス」でした。この罪状書きがイエスの自白に基づいているのだとしたら、まさに、ピラトはイエスの発言を肯定の意味に取ったと言うことでしょう。しかし、たといそうだとしても、イエスがその発言をどういう意味でおっしゃったのかには疑問の余地があります。

 ところで、古代教会の教父たちはこの個所をどう解釈したのでしょうか。オリゲネスやヒエロニムスらの書いたマタイ福音書の注解ではいずれも、ピラトや祭司に対してイエスが肯定的にお答えになったとは解釈していません。つまり、古代教会のそうそうたる聖書学者たちはの理解によれば、イエスの答えは言質を与えないための発言であったと言うことなのです。そして、まさに新共同訳聖書はこの解釈にそって翻訳をしたということなのでしょう。

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