BOX190 2006年9月20日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 讃美歌について ハンドルネーム めぐみさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・めぐみさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。きょうは質問があってメールしました。わたしは讃美歌を歌うのが好きですが、キリスト教会はいつごろから讃美歌を歌うようになったのでしょうか。ちょっと興味があり質問してみました。よろしくお願いします。」

 めぐみさん、メールありがとうございました。キリスト教会といえば、音楽と深いかかわりを持った宗教です。お手持ちの『讃美歌』を開いていただくと、たとえば37番Bは四世紀に活躍したミラノの司教アンブロシウスという人の作った讃美歌です。この人は讃美歌の父とも呼ばれる人で、あの有名なアウグスティヌスにも大きな影響を与えた人です。これで、めぐみさんの疑問の歴史をいっきに四世紀までさかのぼったことになります。
 もちろん、キリスト教会で讃美歌が歌われるようになったのは、アンブロシウスの時代よりずっと前のことでした。さらに一気に歴史をさかのぼると、新約聖書の時代までその足跡をたどることができます。
 使徒言行録の16章にパウロたちがフィリピで伝道をした様子が描かれています。そのとき、パウロとシラスは逮捕されて牢獄に監禁されてしまいます。使徒言行録の16章25節にはそのときのことがこう記されています。

 「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」

 そのときの歌がどんな歌であったのか、残念ながら今となっては知るすべもありません。ただ、これはクリスチャンが賛美の歌を歌っていたことを証言する最古の証言の一つだということができます。
 もちろん、こうしたクリスチャンの伝統がユダヤ教の伝統を踏襲していることは十分に想像できることだと思います。旧約聖書には詩編とよばれる膨大な数の詩が収録されています。もちろん、そのすべてが神殿の礼拝で歌われたのかどうかはわかりませんが、表題から考えて明らかに神殿の礼拝で歌われたと思われるものがいくつもあります。
 たとえば、詩編の4編は「指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩」という表題が付いています。おそらく神殿の礼拝で歌われたのだろうと思われます。あるいは、詩編の31編の表題には「『暁の雌鹿』に合わせて」という表題が付いていますが、これはその歌のメロディーと関係があるのかもしれません。
 こうした礼拝で歌を歌う伝統がキリスト教会に自然に入り込んできたことは簡単に想像することができます。実際、最後の晩餐のとき、イエスとその弟子たちが賛美の歌を歌ったことがマルコによる福音書14章26節に記されています。これはユダヤ教の過越の祭りの伝統に従って詩編を歌ったものだといわれています。

 詩編を歌う伝統については、ほかにも新約聖書で具体的な勧めがなされています。エフェソの信徒への手紙5章19節には「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と記されています。ここからも明らかな通り、詩編を歌うことはキリスト教会にも受け継がれていたのです。
 ところで、今引用したエフェソの信徒への手紙には、詩編ばかりでなく、「賛歌と霊的な歌」についても言及されています。「賛歌」や「霊的な歌」がいったい何を指すのかは具体的にはわかりませんが、おそらくそれらはユダヤ教から受け継いだ神賛美の歌ばかりではなく、キリスト教会が生み出した讃美歌も含まれていると思われます。

 さて、キリスト教会がユダヤ教の伝統から受けついだ賛歌は神への賛美の歌なのですが、そこには当然キリストへの賛歌というものは含まれていなかったはずです。キリスト教がキリスト教であるゆえんは、イエスをキリスト、すなわちメシアと信じ、キリストを神としてあがめることにあります。そこで、当然キリスト教的な讃美歌には神に対する賛美の歌と同様に、キリストに対しても賛美の歌が歌われたと考えられます。
 実はそのような歴史的な記述が偶然記された書物があります。それは小プリニウスがトラヤヌス皇帝にあてた二世紀初頭の書簡の中に出てきます。

 「彼ら(クリスチャン)は通常ある決まった日の日の出前に集まり、あたかも神に対するかのようにキリストに対して歌を歌い交わす」

 ここには三つほど着目すべき点があります。まずはじめに、クリスチャンたちは決まった日に集会をもっていたということ。おそらくそれは日曜日の礼拝のことを言っているのだと思われます。
 そして、二番目の着目点は、その集会の中で賛美の歌が歌われたのですが、「あたかも神に対するようにキリストに対して」と記されている点です。神を賛美することはユダヤ教の時代からあったことですが、その賛美の歌をキリストに対して、しかも、キリストを神としてあがめる歌をクリスチャンたちが歌っていたというのは注目すべき点です。
 三番目の着目点は、賛美の歌い方です。「交互に歌い交わす」というのは会衆が二手に分かれて互いに歌い交わすような歌われ方をしていたということでしょう。これもおもしろい証言です。

 それで特に二番目の点、つまり、キリストを賛美する讃美歌の起源が、二世紀初頭にまでさかのぼれると言う歴史的な証言はとても興味深いものがあります。おそらくこれは二世紀になって急に始まったことではないでしょう。新約聖書の中にいくつか初代教会の賛美歌の一節ではないかと言われている個所があります。その一つはフィリピの信徒への手紙2章6節以下がそうです。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

 こうして見てくると、キリスト教の賛美歌の歴史は初代教会の歴史と同じくらい古いということができると思います。

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