BOX190 2006年9月13日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: サマリアの女について ハンドルネーム・モナさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・モナさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。突然ですがヨハネ福音書4章に登場するサマリアの女について、先生のお考えをお聞かせください。
 実はこの個所のお話をいろいろな先生のお説教で聞いたことがありますが、そのお説教では、サマリアの女に対する一定の見方があるように思いました。それは、この女性が正午ごろに水を汲みに来たと言うところから始まります。大抵の先生は、昼日中に水を汲みに来ることはありえないので、よほどの事情があるのだろうという話からこの女性に対する人物像を描いていかれます。そして、そのよほどの事情と言うのは五人の夫を次々と変えていたふしだらな女、あるいは一人の夫に満足できない欲情の深い女ということになっていきます。さらに、『今連れ添っているのは夫ではない』というイエス様の発言を得て、同棲生活をしている悪女であると決め付けていきます。
 わたしが女性だからかもしれませんが、こういう一方的な人物像の描き方にどうもしっくりこないものがあります。よんどころない事情のある悪女であると決め付けた上で、五人も夫を変えただとか、同棲生活をしているだとか、一方的に女性が悪者のように描いてしまってよいのでしょうか。もっといろいろとイマジネーションを働かせて、この女性の人物像をえがくことはできないのでしょうか。是非、先生のご意見をおきかせください」

 モナさん、メールありがとうございました。モナさんのメールを読んでいてハッとさせられるものがありました。というのは、まさにわたし自身が、モナさんのおっしゃる先生方の描く人物像でサマリアの女を描いていたからでした。おそらくそれは、自分が今までに聞いた説教によって形作られた人物像ではないかと思います。一旦そういうイメージができてしまうと、中々違った読み方で読むことができないというのが人間の偏見というものです。そのことを改めて指摘された思いでハッといたしました。
 今回、モナさんの提言を受けて、もう一度、ヨハネ福音書4章に登場するサマリアの女の人物像を描きなおしてみることにしました。

 先ずはじめに、この女性を見る視点が最初から二つあることは否定することができません。それは一つにはこの女がサマリアの女であったということです。ヨハネ福音書はこの女性がユダヤ人の女ではないと言うことを最初から着目すべき点として挙げていると思われます。ユダヤ人にとってサマリア人がどんな人々であったのかということはよく知られているとおりです。つまり、純粋なユダヤ人でない上に、モーセの律法とは違う経典を持ち、さらにはエルサレムではない場所で礼拝を守る人々であるということです。ユダヤ人から見れば異端的な宗教を持つ人々です。もちろん、ヨハネによる福音書はサマリア人を差別的に扱おうとしているのではないことは明らかです。ただ、ユダヤ人であるならば誰でもがもつであろう偏見を予想しながらこの記事を書いていたことは確かでしょう。
 もう一つの点は、サマリア人全般に言えることではなく、この女性が抱えていた特有の問題からこの女性を描こうとしていることです。
 色々な先生方の説教の中で指摘されているとおり、確かにこのサマリアの女性は昼の日中の暑い時間帯に井戸水を汲みに来なければならない事情があったと言うことは紛れもない事実でしょう。そして、福音書に書かれている通り、そのよんどころのない事情とはこの女性が五人の夫がいたけれども、今連れ添っているのは夫ではないと言う点と何がしかの関係があったものと思われます。

 確かにこう書いてしまうと、モナさんが今まで聞いてきた説教の中で取上げられたサマリアの女の人物像と何もかわらないではないかと言われてしまいそうです。わたしは、その当時のユダヤ人がこのサマリアの女を見たときに感じるであろうこの女の人物像はまさにそのとおりだったと思います。
 しかし、もし偏見を捨ててこの女性に目を注ぐならば、いくつかの修正は必要なのではないかと、モナさんのメールを読んで気がつかされました。
 その第一点とは、この女性にはかつて五人の夫がいたという点に関してです。その意味は同時に五人の夫と暮らす一妻多夫の生活を送っていたと言う意味ではないことは確かでしょう。死別か失踪か離婚か分かりませんが、何かの事情があって五人の夫と結婚生活を繰り返したと言うことです。その場合、今まで耳にした大抵の説教の中では、その理由を結婚生活の破綻というものに限定してこの女の人物像を描いていたと言うことです。しかも、あたかもこの女性の気まぐれによって次々と男を乗り換えていくようなふしだらな女と描かれることもあったのです。少なくとも、当時の事情を考えると、離縁の権利は男性にだけ与えられていたのですから、五人の夫と結婚と離婚を繰り返したのは、男性の側の身勝手によるということも考えられるのです。そうだとすれば、この女性は身勝手な男性の餌食になって翻弄された人生を送ってきたともいえなくはありません。もちろん、五人の夫と結婚生活を送ってきた理由は、離縁によるものとばかりは限りません。次々と不幸が襲い、五人の夫を病気や事故で失ったのかもしれません。このサマリアの女が背負っていた人生の重荷は、色々な角度から想像しなければならないということです。

 もう一つの点は、「今連れ添っているのは夫ではない」という言葉の意味です。可能性としては、しようと思えばできるのに正式に結婚しないで同棲しているか、あるいは、そもそも結婚できない間柄なのに一緒に暮らしているかのどちらかでしょう。確かにどちらも当時のユダヤ人の社会では受け容れられない異常な事態です。ただ、問題はそのような異常な状態を続けることになった主な原因がどちらの側にあったのかという点は、サマリアの女の側にあったとばかりはいえないかもしれません。経済的に困窮していたであろうこの女性の弱みにつけこんで、いいように男に弄ばれていたのかもしれません。あるいは背に腹はかえられず、やむなく男の経済に頼っていたのかも知れません。もちろん、どんな事情があったにしても、この女性の暮らしは誉められたものではないことは確かです。しかし、ただふしだらな女では済まされない人物像の描き方もあるでしょう。
 実際にこのサマリアの女がどういう女性であったのかはわずかな情報からすべてを描ききることはできません。ただ、偏ったイマジネーションでサマリアの女の人物像を描くことは、人間理解や人間社会の深い罪を見失わせることにつながり、ひいてはキリストのもたらす救いの理解を薄っぺらなものにしてしまうと言うことです。そういう意味で、キリストの救いの深さを理解するために、様々な観点から人物像を検討することは大切なことだと言うことを改めて考えさせられました。

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