BOX190 2006年3月29日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「ありのままは甘え?」 ハンドルネーム・ひろさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ひろさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、番組を楽しみに聞かせていただいています。

 さて、早速の質問ですが、いつの頃からかわかりませんが、『ありのままの自分』を肯定するような風潮が世の中に蔓延しているような気がします。その風はそのままキリスト教会の中にも吹いているのではないかと思います。

 たとえば『神様はそのままの姿のあなたを愛してくださる』とか、『ありのままの姿でいいから神様のところへ行きましょう』といった言葉をよく耳にします。

 確かに完全に清くないと神様の前に受け入れてもらえないのだとしたら、誰一人として救われません。そういう意味ではその言葉はそのとおりだと思います。けれども、ほんとうにそれはそれでいいのかなぁと思ってしまうこともあります。

 聖書を読んでいると、やはり神様はわたしたちが清くなることを望んでいらっしゃるのではないでしょうか。いつまでもありのままの自分を肯定していてよいものなのでしょうか。そのあたりのところがもやもやとしていて自分でもはっきりと整理がつきません。

 どうか、すっきりとできるようにお助けください。よろしくお願いします。」

 ひろさん、メールありがとうございました。確かにひろさんがおっしゃるように、「ありのまま」とか「そのまま」を肯定する言葉を最近色々なところで耳にします。前向きな生き方をする上では、なるほどありのままの自分を受け入れることが大切です。自分を否定する生き方からは、何もよいものが出てこないというのも一面の真理です。

 しかし、この言葉の使い方を一歩間違ってしまうと、みんながただのわがままな生き方をするだけのことになってしまいます。「ありのまま」と「わがまま」は似ているようで全然違ったものです。

 さて、キリスト教的に「ありのまま」や「そのまま」の自分を肯定的に受け止めるとは、どういうことなのでしょうか。

 先ず初めに注意しなければならない点の一つは、ありのままの自分の姿と一口でいっても、それが人間として当然のことである場合と、むしろ、人間として望ましくない場合があるということです。

 たとえば聖書は少なからず、人間一人一人が抱えている弱さを描いています。その弱さのなかでも、本来人間として避けることのできない弱さもあります。例えば、疲れてくれば眠くなってウトウトと寝てしまうとか、一生懸命働けばおなかがすいて動けなくなるとか、悲しい出来事に直面して、涙が止まらなくなってしまうとか、いろいろなことがあります。世の中強い人間もいますから、そんなことでウトウトしてどうするのか、お腹が空いたぐらいでへなへなとへたってしまってどうするのか、悲しいからといって、いつまでも泣いてばかりいるな…などと厳しく言う人もいます。しかし、これらのことは人間としての性質ですから、これを変えるというのはとても難しいことです。また、変える必要が本当にあるのかどうかも疑問です。もちろん、運転中にウトウト寝てしまって事故を起こすような結果になればそれは問題です。その場合は眠くならない強い人間になることよりは、眠くなるような状況を作らないことが大切です。たとえば、睡眠を十分取るなどの方策を取ることです。

 けれども、同じ弱さといっても、罪の性質から出てくる弱さとなると、話は別です。たとえば、お腹がすいてどうしようもないので、誰かの物を盗んで食べたとします。たしかにそれも人間の弱さです。しかし、それをありのままの自分の行動として肯定してしまうことはできません。お腹が空くことは仕方がありませんが、盗んででも食べることは仕方のないことでは済まされません。罪から出てくる人間の弱さは、たとえ多くの人がそこに陥ってしまうからといっても、そういう生き方がありのままの人間の姿でもなければ、そのままでいいはずもありません。

 もう一つ注意して区別しなければならない問題は、ありのままの自分の姿を知るということと、その自分がそのままの姿でいつづけることがよいことだというのとは、全然別の問題だということです。

 人は自分の罪深い姿を認めたり、直視したりすることは好きではありません。それはある意味で当然のことです。そんな醜い自分の姿を認めることなどできないのが普通です。けれども、自分の真実の姿、あるがままの姿を知らないとすれば、それを直すことも正すこともできません。そういう意味では、自分のありのままの姿をあるがままに受け止めることはとても大切なことなのです。しかし、あるがままの姿を自分の姿と受け入れることと、その姿のままでよいと是認してしまうこととは全く違うことなのです。

 さて、随分と前置きが長くなってしまいましたが、クリスチャンたちが「あるがままの姿」というときには、それは罪の弱さをも含んだあるがままの姿です。「あるがままの姿で神様のところへ来なさい」というのは、その姿こそ自分の真実の姿であることを受け入れて、神の前に救いを求めてくるようにということなのです。自分でその問題を解決した上で神様のところへ来るようにというのであれば、そもそも救いを求めて神のもとへくる必要性がなくなってしまいます。神がわたしたちに救いの手を差し伸べてくださるからこそ、あるがままの姿ででも神のもとへと進み出ることができるのです。

 また、「神はありのままのあなたを愛してくださる」という場合にも、「罪を犯しているあなたが一番よい」という意味では決してないのです。そうではなく、たとえわたしたちが罪から自力で抜け出せないとしても、それでも神はあなたへの愛を変えることはないという意味なのです。だからこそ、自分に失望して救いを諦めてしまうのではなく、神に希望を置いて神のもとへと進み出ることができるのです。

 神は人間を罪ある性質から解放してくださるために、わたしたちをあるがままの姿で受け入れてくださったのです。ですから、わたしたちがいつまでも罪あるままでいることを望んでいらっしゃるわけではありません。そうであればこそ、聖書は、罪を赦していただいた信徒一人一人が罪からまったく清められることを願っているのです。そういう意味では、聖書はわたしたちが罪の中にいつまでも留まっているような「あるがままの姿」「そのままの姿」を望んでいるのではありません。むしろ、神の助けに支えられながら、日々罪の性質から清められていくことが望まれているのです。そういう意味ではあるがままでいつまでも留まってはいけないのです。キリストの日に非のうちどころのないものとなることが望まれているのです。必ず神がそのようにしてくださることを期待して向上していくのがクリスチャンの生き方なのです。

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