BOX190 2006年3月8日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「教会内のトラブルについて」 匿名希望

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望の女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を聞かせていただき、いろいろな方たちの疑問から学ばせていただいています。

 さて、わたし自身、最近とても悩んでいることがあって、きょうはメールさせていただきました。

 その悩みというのは、手短に話せば、教会内の人間関係のトラブルです。恥ずかしい話ですが、クリスチャンだからといって、皆が皆、うまくやっていけるのではないのだなあ、ということをこの一年ほどの間に痛いほど思い知らされました。

 具体的なことは詳しくは書けませんが、ある一人の方の言葉や態度に、傷ついている人がたくさんいるということです。その方は信仰をもって、もう何年も教会にいらしている方です。教会の役員を引き受けていたこともあったようです。確かに面倒見のいいところもある方です。

 しかし、言葉の端々に、人を見下しているような感じがあったり、キリストが中心ではなく、自分が中心に教会が動いているような態度を垣間見せる時があるのです。

 ご自分が人を躓かせていることを、ご本人は気がついていらっしゃるのかどうか…、おそらく気がついていらっしゃらないのだと思います。

 そういう場合、いったいどうしたらよろしいのでしょうか。ご本人にそのことを伝えることが愛なのでしょうか。じっと忍耐することが愛なのでしょうか。どうすることが、クリスチャンとして正しい態度なのでしょうか。アドバイスをよろしくお願いします。」

 教会内での人間関係のトラブル、これはとても悲しい出来事だと思います。この世の喧騒から逃れて、せめて教会では心穏やかに過ごしたいと、誰もが教会に期待して足を運んできています。その教会の中で、心を傷つけられるというのは、本当に心が痛む出来事です。そういう意味で、このお便りを書くだけでも、相当なエネルギーを使われたのではないかと思います。

 しかし、そういったトラブルがキリスト教会に絶対に無いのかというと、そんなことはありません。もちろん、何事もないことが望ましいことは誰もが知っていることです。しかし、現実の教会には人間関係のトラブルがあるということも事実です。

 もちろん、そうしたトラブルが起きないように一人一人が聖書の教えに従って生きていくことが大切なことは言うまでもありません。しかし、実際には誰もが聖書のとおりに生きることは難しいことです。そこから外れてしまうという弱さは、人間にはありがちなことです。

 では、そのために問題が起ってしまったなら、どうすればよいのでしょうか。

 そのような時に、わたしがいつも心に置いていることが二つあります。どちらも聖書の中に出てくる言葉です。その一つはガラテヤの信徒への手紙6章1節2節の言葉です。

 「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」

 聖書は、教会の中で何か間違ったことが起ったときに、それを放置しておいてよいとは教えていません、解決の道を神様に委ねるということと、放置することとは違います。神様の手に委ねつつ、問題解決のために動くことは聖書が望んでいることです。ただし、その場合、柔和な心、謙遜な思いを忘れてはいけないのです。教会のトラブルを大きくしてしまう一つの大きな理由は、感情に流されてしまうということです。教会に対する期待が大きい分、失望も大きいために、つい感情が一番最初に反応してしまいます。しかし、何が問題なのか、冷静に判断し、柔和な心で兄弟を正しい道に連れ戻さなければ、問題をよけい大きくしてしまうのです。

 パウロはそのとき、互いに重荷を担いあうことを勧めています。「互いに重荷を担い合う」という発想は本当に大切な考え方です。しばしば、教会で問題が生じた時に、一人にその問題を負わせてしまうということがあるからです。「こうなったのは、あの人のせいだ」と言う声がすぐに聞こえてきます。問題の責任を誰かに押し付けようとしてしまいがちなのです。パウロは教会と言う共同体全体で問題を捉え、共同して解決に当たることを第一としているのです。

 もう一つ心に置いていることは、コリントの信徒への手紙一の中でパウロがしばしば用いている「建てあげる」とか「造り上げる」という言葉です。ギリシア語のオイコドメオーという言葉ですが、これは教会というものを考える時に重要な言葉だと思います。一人一人が神から召され救われて、キリストの体である教会に加えられたのは、キリストの体である教会を建てあげるためです。また、この教会を通して一人一人が互いの持っている賜物で造り上げられるためです。

 このことは最後まで放棄してはいけないのだとわたしは思っています。もちろん、一人の言葉や行動にとって、教会全体が破壊されようとしている時に、その人を教会から追い出すことも方法の一つかもしれません。あるいは、自分がその教会から出ることも選択肢の一つかもしれません。

 けれども、それは最後にとっておけばよい手段であって、その方法しかとれなくなるまでは、最大限、建てあげること、造り上げることを第一に念頭においておくべきだと思うのです。

 どんなものでもそうかもしれませんが、造り上げるのには時間がかかるものです。しかし、壊すのは一瞬です。キリストが体である教会を造り上げるために召された一人一人なのですから、先ず第一に、造り上げること、建てあげることという視点から物事を考えていく必要があるのだと思います。

 感情に流される時、しばしば、造り上げることよりも、破壊する方にエネルギーを注ぎがちです。そうならないためにも、どんな状況にあってもキリストの体を造り上げる姿勢を失わないように気をつけていきたいと思います。

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