いかがお過ごしでしょうか。湘南恩寵教会の鈴木牧雄です。けさの聖書の言葉は、フィリピの信徒への手紙3章9節です。
「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」
聖書には「義」という言葉がよく出てきます。そして、「義」という漢字が道徳的な正しさを表すために、キリスト教信仰とは道徳的に正しいことを行うように励む努力や精進のことと思われがちです。しかし聖書の「義」は、それとは少し違う正しさを語っています。
例えば、いくら慈善活動に励み道徳的に正しい人と評判であったとしても、自分の親を親とも思わない人は、生きていく土台も資格もないと言えましょう。人間としての生き方そのものが正しくありません。聖書の「義」は、このような人間としての根本的な在り方そのものの正しさを表す言葉です。つまり、この自分に尊い命と人生を託してくださった天の父なる神を神としてあがめているか、どうか。これが聖書の問うている「義」です。
なぜ人は、命から生気が失われ、人生が分からなく虚しくなってしまうのでしょうか。それは、この天の父なる神を神としてあがめていないからです。だから、いくら道徳的に正しいことを積んでも、人間としての根本的な生き方そのものが正しくならないのです。
イエス・キリストは、そのような私たちの根本的な在り方を正しく整えてくださるために、天の父なる神から「義」を託されて遣わされた救い主なのです。