ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
救いの確信ということと裁きに対する不安というのは、対立しているように思われます。もし、自分が救われると言う確信が持てたなら、最後の審判での裁きを恐れる不安から解放されるはずです。逆に、最後の審判のことを恐れて、自分は救われないのではないかと不安に思っているうちは、救いの確信など持つことはできません。
けれども、長い信仰生活を送るうちに、いつもこの二つの間を揺れ動くのがクリスチャンであるような気がします。確かにキリストが勝ち取ってくださった救いは揺るがないものです。そういう意味では、クリスチャンの救いの確信の土台は、自分の内側にあるのではなく、まさにキリストこそが救いの土台であり、救いを保証してくださるのです。
しかし、他方では、クリスチャンと言えども、この地上にある限り完全に罪から清められているわけではありません。罪のために苦しむと言うことも事実です。そういうとき、そのままでは神の国にふさわしくない自分の現実の姿に不安をくこともあります。しかし、そのことが、悔い改める気持ちを呼び覚まし、救いを求めていっそうキリストのもとへと駆り立てるのであれば、信仰の成長にとってとても役立つことです。逆に自分の現実の姿に鈍感で、救われることを当然のことと思っているとすれば、そのような救いの確信はかえって本当の救いから自分自身を遠ざけてしまうように思います。
きょうは救い主イエス・キリストを迎えた選民である当時のイスラエル人たちの様子から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 3章1節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
少し長い個所でしたが、一回で取り上げてしまいたいと思います。ここには、イエス・キリストの先駆者として、救い主が到来する道を備える役目を果たす洗礼者ヨハネのことが記されています。洗礼者ヨハネは、かつて預言者イザヤを通して預言されていたように、荒れ野で主のために道を整える働きをする人物でした。ヨハネ自身は待望のメシアではなく、「荒れ野で叫ぶ声」として登場します。神の国の到来が間近に迫っていることを告げ知らせ、人々にまことの悔い改めを求めていました。心からその罪を告白し、悔い改める者には洗礼を授けていたのです。そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」