おはようございます。山下正雄です。
「クリスチャンになったら心がきれいになる」という期待は、クリスチャンになるときに誰もが抱く期待の一つだと思います。それはとても大切な期待だと思います。神様もキリストを信じる人たちがそのようにきれいな心になることを願っています。
ところがクリスチャンになってから何年か経つと、そう期待を抱いてクリスチャンになったはずの人たちから、こんな言葉を聞かされることがあります。
「先生、私はいつまでたっても神様のみ心を満たすことができない、失格クリスチャンです。本当に私はクリスチャンなんでしょうか」
その言葉を聞くたびに、その人は成長しているんだなあと感じます。そして、そう思っている人に、いつもこんな譬え話をすることにしています。
お部屋の掃除というのは、ずっとしないでいると、散らかっているのも汚れているのも、いつしか見慣れた風景になってしまうものです。その汚れた状態が当たり前と思ってしまうのです。
クリスチャンになる前の状態というのはそれに似ています。ずっとその汚れた状態のままで今まで生きてきていたのですから、それほど汚れているとも思わないのです。もちろん、多少の汚れには気がついてはいるでしょう。そうでなければ、クリスチャンになって心を清められたいとは思わないからです。ただ、誤算だったのは、どれくらい汚れているのか、すっかり見慣れた風景になっている自分の汚れを軽く見積もっていたのです。いざ、心の掃除をはじめると、思ったよりも苦労してしまうので、失望してしまうのです。
掃除というのは不思議なもので、やり始めるとキリがありません。一箇所でもきれいになると、きれいになったところよりも、汚いところが余計に目立ってくるものです。真っ白な壁にしみがつけば、最初は気になってしまいます。ところが、その白い壁が薄汚れてくれば、小さなしみなどどうでもよくなってきます。今度は、その薄汚れた壁の一部でもきれいに汚れをとったなら、そのきれいになったところのお陰で、回りが汚くて気が休まりません。
汚いと気がつくのは、逆説的ですが、お掃除が進んでいる証拠なのです。ですから、クリスチャンになる前よりも、なった今の方がずっと汚れていると感じることができたとすれば、それは、確実に清められつつあることの証拠と思ってよいのだと思います。清められなければならない自分であることを自覚しているだけ、ずっと進歩したとも言えるのです。
大切なことは、自分で自分を見限ってしまわないことです。神様はその人の弱さ足りなさをご存知の上で、心のお掃除をはじめてくださったのです。このよい業をはじめてくださった方が、必ず完成してくださることを信じて、しっかりとキリストのもとに留まっていることが大切です。
聖書はこう言っています。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。」(1コリント1:8-9)
神様は真実な方ですから、私たちの期待を裏切ったりはなさいません。最後まで私たちをしっかりと支えて、その救いを完成させてくださるのです、