タイトル: 「愛の実践も救いの条件なのでは?」 T・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「主の御名を賛美致します。
山下先生、今回も私の質問を取り上げて頂き有難うございました。
さて、今回は山下先生のお答えに対し私の思う所を正直に言わせて頂きたいと存じます。それは今回のお答えが私の思う所と違っていたということです。私は信仰が大切であるのと同じ位、愛の実践が救いにとって大切な条件だと思っていました。
正直に述べます。私は愛に生きる人を見聞きする度にその人がクリスチャンであろうとなかろうとその人に天国にいってもらいたいし、またいけると信じたいのです。逆にいいますと、自分さえ天国にいけたらよいと思っているクリスチャンには天国にいって貰いたいとは思わないのです。(私自身愛の実践が足りない人間なのですが・・・)私の考えは間違っているのでしょうか? キリスト教ではやはり「信仰のみ」なのでしょうか? もちろん奇跡の体験をもつ私の信仰に揺るぎはないのですが・・・是非お答えして頂きたいと存じあげます。」
T・Hさん、いつも番組を聴いて下さってありがとうございます。また、いつも福音とは何かと言うことを考えさせられる適切な質問をしてくださってありがとうございます。いつもいろいろな疑問を抱きながら聖書を読み、答えを見出そうとする姿勢はとても大切なことだと思います。
さて、前回T・Hさんのご質問を取り上げたのは、かれこれ三ヶ月ほど前のことになりますが、リスナーの方には、その番組を聞いていなかった方もいらっしゃるかもしれません。要点だけを簡単におさらいしたいと思います。
T・Hさんのご質問は救いの条件についてでした。救いは信仰だけによってもたらされるものなのか、それとも行いも必要なのか、そういうご質問でした。そのときお話したのは、宗教改革のスローガンの一つ「信仰によってのみ」ということをローマの信徒への手紙3章28節を引用しながらの説明でした。
そのときまた同時にお話ししたことは、ガラテヤの信徒への手紙5章6節でいわれている「愛の実践を伴う信仰」の大切さでした。それは「信仰によってだけ救われる」ということと矛盾することではありません。信仰によってキリストの義をいただいたわたしたちが、信仰者としてどのように神のみ心に従って感謝のうちに生きるのかということは、当然大切にされなければならないことです。しかし、そのことと救いの条件とを混同してはならないということをお話したと思います。
きょうのご質問はそのことを受けてのご質問です。果たして人が救われるためには、行いも必要なのでしょうか。あるいは、正しい行いをすれば、キリストを信じなくても救われるのでしょうか。
まず、誤解のないように言っておきますが、「救われるのは信仰のみによる」ということと「救われたクリスチャンにはよき行いも愛も必要ない」という考えは全く別物だということです。そのような教えは聖書にもなければ、宗教改革を実行した改革者たちの考えにもありませんでした。彼らは聖書の教えに従って、よき行いに生きることを確信をもって勧めていました。ただ、よき行いは救いの条件としてではなく、救われた感謝の応答として、よき行いに励むようにと勧めていたのです。
それで、このような考えを理解するためには、人間に対する聖書の深い洞察を知る必要があります。
ローマの信徒への手紙3章9節にあるとおり「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」。もちろん、「ユダヤ人とギリシアはそうかもしれないが、日本人はそうではない」という議論は成り立ちません。パウロがここで言いたいことは、全人類がひとりとして罪の影響を免れることはできないということなのです。この聖書の人間観を軽く見てはいけません。パウロはそこで詩編の言葉を引用して「正しい者はいない。一人もいない・…善を行う者はいない。一人もいない」と言っています。その結論として、ローマの信徒への手紙3章20節では「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」と言い切っています。この聖書の言葉を真摯に受け止めるとすれば、行いによって救われる道や、信仰と行いが救いの必要条件であるとするような考えは出てくるはずもありません。
もちろん、この世の中には平凡なクリスチャン以上に立派な人がいることは否定できません。しかし、その場合の「立派」というのは、あくまでも人間的な基準です。神の義を満足させるような「立派さ」ではないのです。誤解のないように言いますが、わたしは決してそういう人間的な基準で立派な人たちを低く見積もろうとしているのではありません。ただ、その人たちがどんなに立派であるとしても、「善を行う者はいない。一人もいない」とする聖書の基準から見て、それは救いをもたらすほどの善に生きている訳ではないのです。それにその立派さも実を言えば、罪深い人間の社会が悪のどん底に陥ってしまわないようにと、神がそのような人を送ってくださったのです。ですから、その正しい行いを彼らの功績と考えることはできません。
これらのことをわかりやすく例話で語るとすれば、こんな風になるかと思います。聖書では人間の罪は「借金」や「負債」として表現されています。借金や負債がなくなる条件は三つぐらいしかありえません。一つは本人が完全に借金を返すことです。二つ目は誰かが本人に代わって返済してくれることです。三番目はお金を貸してくれた人が借金を寛大にも帳消しにしてくれることです。
さて、わたしがT・Hさんから1兆円の借金をしたとします。わたしにはそんな大金を返す力など当然ありません。しかし、とにかく毎月1万円ずつせっせと返すことにしました。1年で12万円、10年で120万円、30年かかってやっと360万円返しました。借りた1兆円には気が遠くなるくらい遠い額です。でも、真面目に返しました。もう30年も真面目に返したのですから、当然、残りの借金は赦されるべきだとわたしは大きな顔で主張することができるでしょうか。たとえ赦されたとしても、それは当然のことではないはずです。赦されたのはわたしが真面目だったからではなく、ひたすら貸主のT・Hさんが寛大なお方だからです。
キリスト教の場合、父なる神様は寛大にもわたしたちの借金を帳消しにしてくださったのです。しかも、ただ帳消しにしてくださったのではなく、御子であるイエス・キリストがわたしたちに代わって、その借金の返済をしてくださったのです。そのことを信じるのがキリスト教です。ですから、救いはただ神の恵みにより、信仰を通してもたらされるものなです。
では、救われたわたしはそれ以降何もしなくなるのでしょうか。そうではないはずです。先ほどのたとえで言えば、赦された感謝として、返済に充てていたお金をほかの良いことのために使うようになるでしょう。そうすることを神は願っているのです。
T・Hさん。いかがでしたか。誤解のないように、最後にもう一言だけ付け加えますが、果たして自分だけが救われればよいと思っているクリスチャンはいるのでしょうか。また人間的に見て立派であることを、宗教の違いを理由に否定するクリスチャンがいるのでしょうか。
Copyright (C) 2005 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.