聖書を開こう 2004年10月28日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 兄弟愛について(1テサロニケ4:9-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 アメリカのペンシルヴァニア州にフィラデルフィアという名前の都市があります。1776年に独立宣言が発せられた地として有名です。また、この都市の名前をとったフィラデルフィア管弦楽団というオーケストラでこの名前を耳にした方も多いと思います。
 この「フィラデルフィア」という単語は「兄弟愛」という意味のギリシャ語から来ています。
 きょうこれから取り上げようとしている個所には、まさにこの単語「フィラデルフィア」が登場します。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 4章9節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。

 テサロニケの信徒への手紙一を連続して学んでいますが、4章に入って、パウロは幾分具体的な勧めの言葉を記しています。先週は清い生活を送るようにという勧めを学びました。今週は兄弟愛…フィラデルフィアについてです。フィラデルフィアと言う単語は聖書に限って用いられているという単語ではありません。パウロが使うよりも前から一般的な言葉としてフィラデルフィアと言う言葉は存在していました。ただし、本来の意味は文字通りの血のつながりのある兄弟間の愛でした。パウロが使っているフィラデルフィアは文字通りの兄弟愛ではなく、イエス・キリストにあって兄弟姉妹である信徒同志の愛についてです。
 ところが、パウロは最初から意外な書き出しで、この段落を始めています。

 「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません」

 確かに、テサロニケの教会の人たちの愛については既にパウロは何度も言及して来ました。手紙の冒頭部分で、パウロはテサロニケの教会の人たちの「愛の労苦」について神に感謝しています(1:3)。また、テモテが伝えたテサロニケ教会の様子についての報告の中にも、この教会の愛についてのうれしい知らせがありました(3:6)。そしてさらに、4章に移る直前の祈りの中でパウロは「主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」(3:12)と祈っているのですから、もうこれ以上兄弟愛について触れる必要を感じないというのはうなずけることかもしれません。
 パウロは何故兄弟愛について語る必要がないのか、ここでさらに理由を二つ加えます。
 その一つは「あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです」というものです。
 ここで「神から教えられている」という表現が使われていますが、ギリシャ語では「テオディダクトス」(神に教えられた)という形容詞一単語で表現されています。この単語は実はここ以外には登場しない単語です。新約聖書の中に一回だけしか出てこないというばかりでなく、新約聖書以外にも用例のない珍しい単語です。
 ところで、神から兄弟愛について直接教えられているというのは、どういうことなのでしょうか。この手紙の中では、テサロニケの教会の人たちは「神に愛されている兄弟たち」と呼ばれています(1:4)。もしかしたらパウロの念頭にあったのは、ヨハネの手紙が記しているように(1ヨハネ4:7-11)、イエス・キリストをとおして示して下さった神の愛に応えて、互いに愛し合うことをテサロニケの教会の人たちは学んでいたのかもしれません。そのことをさして、パウロはテサロニケの教会員たちは兄弟愛については神から教えられていると述べているの でしょう。

 パウロがテサロニケの教会員たちに、兄弟愛について書き記す必要がないもう一つの理由としてあげているのは、この教会が現に「マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行して」いるからです(4:10)。テサロニケの教会の兄弟愛は一つの教会内のことに留まらず、マケドニア州全土に及ぶというのですから、これはとてもスケールの大きな話です。具体的にどんなことを指しているのかはわかりませんが、同じような例はフィリピの教会にもありました。パウロがフィリピの教会に宛てて書いた手紙の四章に、フィリピの教会が者のやり取りでパウロの働きに参加したことが記されています。これはただ単にパウロの宣教活動を支えたというだけではなく、その地域の教会の兄弟姉妹に対する支援でもあったはずです。パウロはそのような兄弟愛をなおいっそう励むように勧めています。
 そういうわけで、「兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません」と書いた冒頭の言葉は、なるほど理に叶ったものであるかもしれません。
 しかし、本当に書く必要がないのならば、何故、兄弟愛について言及しておきながら、「書く必要はありません」と否定したのでしょうか。そう書くことで、かえって、兄弟愛について注意をひきつけているように感じられます。
 パウロが兄弟愛の実践について、テサロニケの教会の人たちに実際に伝えたかったことは、むしろ11節と12節にあるのではないかと考えられます。この二つの節は兄弟愛とは一見関係なさそうですが、これこそパウロが特に注意を促したかった点ではないかと思います。

 そこにはこう記されています。

 「そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」

 落ち着いた生活をしたり、自分の手で生活を支えるというのは、常識といえば常識かもしれません。そうでなければ教会の外部の人々に対して品位を保つことなど出来ません。
 しかし、何故、こんな常識的なことをパウロは兄弟愛との関連でわざわざ書き記しているのでしょうか。興味あることには、同じような勧めの言葉が、テサロニケの第二の手紙の3章にも記されています。テサロニケの教会の人たちはよほど怠け者で、人をあてにして生活を送っていたのでしょうか。このことはひょっとしたら、テサロニケの教会の人たちの終末についての間違った期待と結びついていたのかもしれません。この手紙を読むと、テサロニケの教会の人たちがどれほど世の終わりが来ることを間近なこととして期待していたのかがわかります。そのような期待から、 「どうせもう少しで世の終わりが来るのだから」との理由で、真面目に働くことを放棄してしまう人たちもいたのかもしれません。そのような間違った生活態度が、ひいては兄弟愛をもゆがめてしまうことをパウロは懸念していたのでしょう。
 イエス・キリストがおっしゃっているように、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたはわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:35)のですから、その兄弟愛について、パウロは一層注意を払うようにとテサロニケの教会員たちを促しているのです。

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