聖書を開こう 2004年10月7日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 喜びと感謝(1テサロニケ3:6-10)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしは仕事の都合で、二年に一度はアメリカに行く機会があります。そのときにかつてお世話になった宣教師の方々のおうちをお訪ねしています。もう今は一線を退かれ、ゆったりと暮らしている方々です。日本を離れてから5年10年と経つ先生方ですが、それでも、いつも日本の教会のことを心に留め、日本の教会の様子を何よりも知りたがっていらっしゃいます。それは日本の教会に対する個人的な思い入れということもあるのでしょう。しかし、その思いにはそれ以上のものを感じます。そして、その熱い思いに触れるとき、場所は遠く離れていても、祈りによって支えられていることとを深く思わされます。
 さて、きょうの聖書の個所は、自分のもとから派遣した使者が戻ってきて、自分たちが伝道した教会の様子を知って、喜びと感謝の気持ちで満たされた、その思いを書き綴った個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 3章6節から10節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。

 前回取り上げた個所に、テモテを派遣するに至ったパウロたち一行の心境が綴られていました。そこには「もはや我慢できずに」と記されていましたが、じっとしてはいられない思いで、テモテを派遣することにしたのでした。それというのも、パウロたちがテサロニケに留まって伝道をしたのはわずかの期間に過ぎなかったからです。福音に敵対する者たちの反感を買い、追われるようにして町を出ざるを得なかったパウロたちには、正に後ろ髪をひかれるような思いでした。後に残された教会がどうなってしまうのか気が気ではなかったことでしょう。前回取り上げた個所の最後の言葉はこういうものでした。

 「そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。」

 そこには残された教会を気遣うパウロの心配な気持ちがよく表されています。
 しかし、派遣から戻ってきたてテモテの報告を聞いて、今までの杞憂が一気に吹き飛んでしまいます。その溢れるような喜びがきょうの箇所から伝わってきます。
 テモテはテサロニケの教会の人たちの信仰と愛についてうれしい報告しました。この手紙の冒頭でパウロはテサロニケの教会の人たちの信仰と愛と希望とをいつも神の御前で心に留めているということに触れました。祈りの中でテサロニケの教会の人々のこと思うときに、彼らの信仰、愛、希望があい働いている様子を思い描いて来たのです。その思いをけっして裏切ることのないテサロニケの教会の人々の様子に、テモテの報告を通して再び触れることができ、パウロの喜びが一気に溢れています。
 パウロを喜ばせたのはそればかりではありませんでした。それはテモテの報告によれば、自分がテサロニケの教会の人々を思うのと同じように、テサロニケの教会の人々もまたパウロたちのことを心に留めていたからです。
 「去る者は日々に疎し」という諺がありますが、パウロとテサロニケの教会の間にはそのような諺も無用なほどでした。
 パウロはこの手紙をコリントで書いたであろうといわれています。テサロニケを追い出され、コリントに至るまでに幾多の困難にぶつかってきました。そして、コリントでの伝道でも計り知れない困難に直面していたことでしょう。パウロ自身、自分が直面した困難について、コリントの信徒への二番めの手紙の中でこう言っています。

 「ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが3度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(2コリント11:24-27)。

 それに加えてパウロは「その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」と述べて、その苦労の大変さに加えて教会に関わる心配事を挙げています。
 テモテがテサロニケの教会から戻ってくるまでは、それこそテサロニケの教会についての心配事で休まる暇もなかったことでしょう。しかし、テモテの報告を聞いてそのような心配事が吹き飛んだばかりか、「あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」とさえ述べています。教会の牧師や伝道者は教会員を励ますことに多くの心を用います。しかし、それ以上に教会員の信仰によって多くの励ましを与えられることも確かなことなのです。
 このような喜びに対して神にどれほどの感謝を捧げたとしても十分ではないという気持ちでいることが描かれています。
 しかし、それでもなおパウロは「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と述べています。一体この上何を補おうとしているのか、ここには具体的に記されてはいません。
 偶然かもしれませんが、パウロはテモテからテサロニケの教会の「信仰と愛」についてはうれしい知らせを伝え聞いたとは述べていますが、「希望」については触れていません。確かにこの書簡の後半には、テサロニケの教会の人々の間に、世の終わりの希望について動揺するような状態であることが記されています。パウロの願いはこの教会が信仰と愛と希望とに生きることです。そのように教会が建て上げられていくことがパウロにとっての喜びであり感謝なことなのです。そして、そのように神もわたしたちの教会が歩むことを望んでいらっしゃるのではないでしょうか。

Copyright (C) 2004 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.