聖書を開こう 2004年5月6日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 思いを一つとするために(フィリピ2:1-4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 一人の方が気が楽だと言うことがあります。気をつかってばかりいたのでは、疲れてしまいます。確かにたまには一人で過ごすことも大切でしょう。しかし、そもそも神が人をお造りになったとき、人が独りでいるのはよくないと神はおっしゃいました。人間が社会集団の中で過ごすことは神のみ心なのです。
 けれども、罪のある人間の社会では、集団が一致することの難しさも経験します。それは教会という共同体の中でも例外ではありません。
 きょうの学びの個所では一致の勧め、また一致の基礎となるへりくだりについてパウロは勧めています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書フィリピの信徒への手紙 2章1節から4節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

 きょうの個所では、パウロは唐突にも「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とフィリピの教会の人々に望みます。また、「利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」などとも勧めています。
 これらの勧めの言葉を読むときにいったいどうしてこんなことをパウロは勧めているのかと疑問に思います。わざわざこんなことを勧めるのには、フィリピの教会には利己心や虚栄心がはびこっていて、心を合わせたり、思いを一つとするのが難しくなっているのではないかと、ついついいぶかしく思ってしまいます。
 もっとも、1章のおしまいからきょうの個所を続けて読むと、すでにパウロはフィリピの教会の人たちが、福音の敵対者に対して「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦」うことを期待しています。つまりフィリピの教会の内部に何か問題があって、「同じ思いとなりなさい」「同じ愛をいだきなさい」「利己心や虚栄心からしてはいけません」などと勧めているのではなく、この福音の戦いを戦い抜くために一丸となって戦うようにと一般的な勧めの言葉を書き記しているのかも知れないと思われます。
 しかし、また、4章の2節を読むと、そこには具体的に二人の女性の名前が挙げられていて、この二人に対して「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めています。これは明らかに一般的な勧めの言葉というよりは、この二人が何らかの意味で対立していて、主にあって同じ思いを抱けないような状態でいることを想像させます。このフィリピの手紙全体から受けるフィリピ教会の印象はとてもよい教会という印象ですが、しかし、現実にはこうした対立が教会内部であったのかと驚きを感じてしまいます。

 きょう取り上げたパウロの勧めの言葉は、ただ、一般的な意味で「福音の戦いのために一丸となるように」という勧めなのではなく、4章で明らかにされるように具体的なことがあってのことなのかもしれません。4章で名前の挙がっている二人の婦人、エボディアとシンティケは福音のためにパウロと戦った人物です(4:3)。しかし、その二人が、今や4章2節で「主において同じ思いを抱きなさい」と注意を受けているのですから、きょうの個所の勧めの言葉も、この二人の婦人も含めてもう少し具体的な問題を念頭においた勧めの言葉と考えることができるでしょう。
 ただ、手紙全体から受ける印象は、コリントの教会ほど分裂状態であったとは思えません。むしろ、みんなが福音の戦いのために熱心であるがために、変なライバル意識が芽生えて来てしまったのかもしれません。
 そういうフィリピの教会に対して、パウロは「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と勧めています。
 それにしても、「幾らかでもあるなら」という言い方は、ちょっと控えめな言い方のように思えるかもしれません。しかし、この場合の「もし〜なら」という意味は、「もしあったら」という仮定ではなく、むしろ、「〜なのだから」という現実を踏まえての意味なのです。日本語でも「もしあなたが学生なら、一生懸命勉強しなさい」という場合の「もし〜なら」というのは、あなたが学生であると言うことを仮定してものを言っているのではありません。むしろ学生であるあなたに向かって「あなたは学生なのだから勉強しなさい」と言っているのと同じ意味なのです。それと同じように、ここでも、パウロはフィリピの教会の人たちに、慈しみや憐れみの心があることを疑っているのではなく、むしろ、実際にそれらをわずかでも持っているのですから、その事実にうったえて、思いを一つにするようにと勧めているのです。

 さて、続けて3節では「利己心や虚栄心」のことが問題にされています。これは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」することと表裏一体をなしています。共同体の内部で互いに相手を自分よりも劣ったものと考えて見下したり、めいめい自分のことばかりを考えていたのでは、当然、思いを一つにすることなど出来ません。
 特に教会と言う共同体は、イエス・キリストを頭とし、一つの御霊によって命を与えられた集団ですから、人間の体全体が有機的に働くのと同じように、教会もそれぞれの構成メンバーが有機的に結び合わされて、一つの目的のためにキリストにあって思いを一つにしなければならないのです。
 そうでなければ、キリストを頭とした教会として立っていくことは出来ません。福音に敵対する者たちとの戦いに勝ち残ることも出来ないのです。
 福音への熱心さが、自分は他よりも優れた者だと思わせ、主のための働きがいつの間にか自分のための働きになってしまうとき、福音のための教会の戦いは自滅の道に陥ってしまうのです。

Copyright (C) 2004 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.