聖書を開こう 2004年3月4日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イエスの死とそれを見守る人々(マルコ15:33-41)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 新約聖書の中に収められた手紙のほとんどを書いた使徒パウロは、その手紙の中で「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまい」と記しています(1コリント2:2)。それほどに、キリストの十字架はキリスト教会にとって中心的な事柄です。また、キリストの十字架は芸術の分野にも大きな影響を与えました。キリストの十字架をテーマにした作品が絵画の分野でも、音楽の分野でも、数限りなく生み出されました。
 きょう取り上げるのは、まさにその十字架のキリストの死を描いた場面です。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。聖書の個所はマルコによる福音書 15章33節から41節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、『待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう』と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。」

 イエス・キリストが十字架につけられたのは、朝の9時であったと福音書に記されていますから、きょうの場面はそれから3時間後の出来事です。3時間と一口に言いますが、十字架の上で苦しむ者にとっては、いつまでたっても終わらない延々と続く時間に感じられることでしょう。
 昼の12時になると全地が闇に覆われる様子が記されます。それは単なる皆既日食ではありません。なぜなら日食は新月の頃におこるもので、満月の頃に祝われた過越祭の時期には起りえないからです。このように全地が闇に覆われるのは、過越のお祭の起源となるモーセの時代にも一度起りました。そのときはまる3日間、暗闇がエジプトの地を覆ったとあります。
 12時から始まった暗闇は、十字架の出来事が象徴する人間の罪と悲しみを示すかのように3時間にも及んで全地を覆います。

 裁判の席ではピラトが不思議に思うくらいに黙っていたイエスの口から、ついに叫びとも呻きともつかない言葉が飛び出します。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
 これは十字架を預言した詩編として、後の時代のクリスチャンには良く知られた旧約聖書詩編22編冒頭の言葉です。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の言葉です。
 確かにそれは罪のうちに死ぬべき者こそが口にする言葉です。罪のうちに死に、完全に神から見放されてしまった者の悲痛の叫び声です。そういう意味で、それはまさに全人類の罪を身代わりに背負ったキリストの苦しみの叫び声です。
 しかし、この詩編の22編は、ただ単に罪に苦しみ悶える罪人の叫びなのではありません。この詩編を最後まで読むと、そこで苦しんでいるのは、罪人ではなく、正しい者、義人なのです。そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びで始まるのこの詩編の結末は、この義人の回復と繁栄を歌って終わります。
 イエス・キリストが叫んだ「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉には、この詩編の冒頭だけではなく、全体がかかっているのでしょう。この言葉を叫んだキリストは、一方では真に全人類の罪を引き受けて、恐ろしい神のさばきの前に立って、叫び声を挙げています。しかし、他方では、この詩編が歌っているような回復と繁栄を望みみて、ついにはすべてを御手に委ねて息を引き取ります。

 「イエスは大声を出して息を引き取られた」とマルコ福音書はその最後の瞬間を語ります。大声で最後に何を語ったのかマルコ福音書は記していません。ルカ福音書では「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と語ったとあります。ヨハネ福音書では「成し遂げられた」と言ったと記されます。どちらにしても、裁きの苦しみに喘ぐ罪人の最後ではなく、むしろ、すべてを神に委ね、すべてが完成したことを表す言葉で結ばれます。
 福音書はイエスが息を引き取られたと同時に、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと記しています。この垂れ幕は罪ある人間と聖なる神とを隔てる象徴的な幕でした。この幕の向こう側には、罪ある人間は近寄ることすら出来なかったのです。しかし、イエス・キリストの十字架の出来事とともに、この幕が引き裂かれたのは、まさにキリストの十字架の死とともに神との和解が成就したことを象徴しているのです。
 人間の目には十字架の上で処刑された一人の人間の悲惨な最後です。しかし、神の目には罪の救いを成し遂げたメシアの救いの業の完成なのです。
 そのことを知ってか知らないでかは分かりませんが、この光景を見ていたローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と証言します。あたかも、この光景を読んでいるわたしたち読者が、この出来事の真の意味を悟って、この百人隊長に声を揃えて信仰を告白することを期待しているかのようです。

 さて、福音書は最後に十字架の最後の場面までつき従ってきた幾人かの婦人たちの名前を記します。この婦人たちのしたことは、ただ「遠くから見守る」ということでした。しかし、それは何もできないむなしさに満ちた行動ではありません。むしろ、遠くから見守るということの中に大きな意味があるのです。
 わたしたちは、自分の手で自分の罪を解決することすらできない弱い存在です。しかし、そうであればこそ、神のなしてくださる救いの御業を目を見開いて見守ることが大切なのです。この十字架を通して実現される救いに対して、目をそらせるのではなく、さりとて、何か自分でするのでもない…じっと神の業を見守る態度こそ、ここでわたしたちにできる最大のことであることを覚えたいと思います。

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