おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書創世記に登場するアブラハムは信仰の父と仰がれるほどの人物です。その信仰の深さは、アブラハムの生涯の色々な場面で顔を覗かせます。大きな決断の中に、また小さな事柄の中に、アブラハムの信仰を伴った生き方がにじみ出ています。創世記の24章は、愛する伴侶を失った後のアブラハムの歩みをこう記しています。
「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた」
日を重ねるごとに、その信仰が練り上げられ、主の祝福を豊かにいただいていたのです。
その老齢のアブラハムにとって一番の気がかりは、息子イサクの結婚のことでした。アブラハムがイサクの結婚のことを気にかけていたのは、2つの理由があってのことです。1つには神がアブラハムに与えた約束のためでした。神はアブラハムにまだ子供がいないときから約束してこうおしゃっていました。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」
アブラハムに待望の息子イサクが生まれたとは言え、星の数ほど子孫が増えるには、イサクに家庭がなければ実現しません。神のこの約束がどう実現されるのかアブラハムには気がかりだったのです。アブラハムはただ孫の顔を見たくて、息子イサクの結婚のことを気にとめていたのではありません。
アブラハムが息子イサクの結婚のことを気に掛けていたもう1つの理由は、イサクや生まれてくるであろうその子供たちの信仰のことを考えていたからです。
アブラハムは息子の嫁探しのことで、信頼を置いた僕にこう頼みます。
「あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」
これはアブラハムの個人的好き好みを言っているのではありません。カナンの娘たちの中から結婚相手を見つければ、真の神を信じる信仰とは異質のものが入ってきてしまうからです。そのことをアブラは心配したのです。自分の子孫がどんなに星の数のように増えても、信仰をもたない者たちが増えたのでは神の約束の意味がありません。
アブラハムは息子イサクの花嫁探しのために具体的な手を打ちます。この場合、じっと待っていることこそ信仰深い者の取るべき行動であるという考えもあるかもしれません。しかし、アブラハムの信仰深さはただ運を天に任すというような消極的な態度に留まるばかりではありません。神の約束の実現を思い、子孫に信仰が受け継がれることを願って、自分に出来うる限りの最善を尽くそうとしたのです。
と、同時に、アブラハムは何が何でも自分の計画を実現しようとは思いませんでした。自分の故郷の親族の中に、ふさわしい相手を見出せない時には、息子の花嫁探しのために使いに出した僕の任務は解かれると決めたのでした。
アブラハムにはただ熱心さだけでがむしゃらに走る信仰ではなく、物事が自分の計画どおりにいかないときに一歩退く信仰深さもあったのです。本当に信仰深いというのは、ことが思い通りに進まない時にこそ発揮されるのかもしれません。また、そういう事態も考えに入れることができる余裕こそ、本当に信仰深いことの証なのではないでしょうか。