タイトル: 「神の予定と救いの関係は?」 神奈川県 T・Tさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのT・Tさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。
「初めまして。私は一度も教会に行ったことがありません。仕事に疲れたときなどにインターネットのキリスト教関係のホームページを見て、自分の生き方の道しるべとしている者です。
去年12月3日の放送について質問させてください。最後の部分で洗礼などの形式的なことだけではないという先生のお言葉は、教会に行ったことがない私に取りまして本当にありがたいと感謝いたします。しかしあるホームページで、神はあらかじめ定められた人を義とし、その人に栄光を与えると書いてありました。これを見て私はノアの箱舟の乗船名簿に私は載っているのだろうかと考えてしまいました。自らの罪を悔い改め、神を信じれば、という部分とあらかじめ、、、という部分についてどう理解すればいいのか、お教えください。」
ということなんですが、T・Tさん、メールありがとうございました。何よりも、T・Tさんがキリスト教のホームページをご覧になって、ご自分の生き方の指針を得てくださっていること、とても嬉しく思いました。そしてまた、この番組を最後までしっかりと聞いてくださったこと、ありがとうございます。
12月に放送した番組は、凶悪犯が救われるチャンスと、その凶悪犯に殺されてしまった被害者の方が救われるチャンスという、とてもデリケートな問題だったと思います。質問を寄せてくださった方は、キリスト教ではどんな犯罪人であっても救われるチャンスを説いているのに対して、その犯罪の被害者は人生の途中で命を絶たれてしまうわけですから、もはやキリストを信じるチャンスすらも奪われて、救われないのではないかと考えられたわけですね。そのときの回答をここで繰り返すのもなんですが、結論的には、どんな犯罪人であったとしても真に悔い改めてキリストを信じるならば赦されない罪はないということ、そして、たとえ洗礼を受ける前にこの世を去ったとしても、まったく救われるチャンスがないというわけではない、というようなことをお話したと思います。
確かに、こういう結論をきくと、まだキリスト教を信じる決心をされていない方にとっては、安心の材料になるかもしれません。わたしの願いは、この番組を聞いていてくださる方が、最後まで諦めないで救いのチャンスを掴んでほしいということです。聖書にストレートに答えが書かれていない問題に取り組んで、あえて答えを見出そうとわたしがしているのは、罪を犯した人が居直るためでもなければ、もうチャンスがないと諦めて落胆するためでもありません。だれもがキリストが提供する救いに与って欲しいからです。
さて、T・Tさんの心を挫いている新たな問題は、「神の予定と救いの関係」と言うことができるのではないでしょうか。
この問題に取り組む前にここで一曲聞いていただきたいと思います。
==放送では、ここで1曲==
今回は「神の予定と救いの関係」というとても大きな問題を取り上げたいと思います。「神の予定と救いの関係」などというと、とても高尚な神学議論が展開するように思われるかもしれませんが、T・Tさんがお寄せくださったように、これはとても素朴な疑問だと思います。
確かに聖書は一方で「神はあらかじめ定められた人を義とし、その人に栄光を与える」と書いています。おそらくT・Tさんがご覧になったホームページが言及している聖書の個所はローマの信徒への手紙の8章30節だと思います。そこにはこう記されています
「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」
この個所を読んで「私はノアの箱舟の乗船名簿に私は載っているのだろうか」「わたしはほんとうに救われる者のうちに定められているんだろうか」と不安に思ってしまうのは誰にでもある素朴な反応だと思います。
しかしまた聖書は「自らの罪を悔い改め、キリストをを信じれば、救われる」と約束しています。ペンテコステの日にペトロが群集に説いたことはこうでした。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)
こういう言葉を聞くと、今度は救いは人間の意志に大きく依存しているようにも聞こえます。そのことと、さっきの「あらかじめ定められた」という聖書の言葉はどう関係してくるのか、訳がわからなくなってしまいます。
ただ、ここで、気をつけなければならないことは、人間的に考えてしまうと、神があらかじめ定めたという神の予定と人間の自由意志は両立し得ないのではないかと考えることです。確かに、素朴に考えるならば、神がすべてを定めたとすれば、もはや、信じる信じないは人間の自由意志と関係がないことになってしまいます。しかし、神の予定をとるか、人間の自由意志をとるか、あれかこれかという問題としてこの問題を考えてしまうと、聖書の教えからかけ離れたとても歪んだ結論になってしまいます。
今も見たように、聖書はどう読んでも、「神があらかじめ定められた」ということと「人間が自分の意志で悔い改めて信仰をもつ」ということと、両方言っているということなのです。この両者の関係をどう説明するのか、残念ながらそこまでは聖書には記されていないのです。ただ一つだけいえることは、神を信じ聖書を書き記した人たちには、このことは矛盾としては感じられなかったのです。むしろ、神が予定して下さっているからこそ、自由な意志で信じることが出来たと確信していたのでしょう。
考えても見れば、真に罪を悔い改めることを願い、キリストによって救われることを真剣に願っている人が、神の気まぐれでいたずらな予定によって、結局は救いの名簿に加えられないというようなことがあるのでしょうか。もしT・Tさんがキリストの救いを少しでも求めていらっしゃるのでしたら、その思いに反して、神は自分を滅びに予定されているのかもしれないと考えるのではなく、むしろ、自分がキリスト教に触れているのは、神の不思議な計画と導きによるのだと確信すること、そのように感じることを聖書は願っているのではないでしょうか。