2019年12月31日(火) 小さな朗読会244「世の終わりの祝福」(「キリスト教信仰の祝福」山中雄一郎著)
わたしの子供のころ、世界は原爆によって滅び失せてしまうのではないか、ということが、緊迫した現実性をもって真剣に考えられていた時代がありました。あれから30年近くの歳月が流れ、原水爆の威力は一層猛烈なものになりましたが、あの時ほどの緊迫感で世界の滅亡が話題になることは少なくなってきたように思います。この世界は永遠に続くという幻想に、どれほどたやすく人は陥ってしまうものかを思わされます。
聖書はこの世の歴史が永遠ではなく、神によって閉じられるものであることをはっきりと語っています。
「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」(2ペテロ3:10)
「主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。」(1テサロニケ5:2-3)
私たちはこれらの言葉を、現在に至るまで真実を語り続けてきた聖書の言葉として真剣に受け止める必要があります。この世界が永遠に続くという幻想には何の根拠もありません。神は突如としてこの世の歴史を閉じられ、この世の歴史を完成させられるのです。
けれども、この主の日は、キリスト者にとっては恐怖の時ではなく、むしろ待ち望んでいる希望の対象です。なぜならば、この世の終わりはイエス・キリストの再臨によってもたらされるからです。世の終わりに起こるできごとが、具体的にどのようなことであるかを想像しつくすことはできません。けれども、この世の終わりの中心的事件である、再臨の中心人物、イエスという方については、キリスト者はよく知っているのです。この方は、2千年前に私たちのために十字架で命を投げ出して下さった方です。また、日々の礼拝と祈りにおいて、絶えず私たちを励まし、慰めて下さっている方です。ですから、私たちは、このキリストが再びこの地上にやって来られ、世界の歴史を閉じられる日を期待をもって待ち望むのです。
キリストは再びこの世に来られ、全世界の審判者としてすべての人をさばかれます。そのときに、キリスト者たちは、現在のからだよりはるかにまさる、栄光のからだによみがえらされ、審判者キリストから、無罪と宣告され、罪も悲惨もない新天新地で、永遠に神を喜ぶ新しい生活に入ります。それがどんな出来事であるか私たちには分かりません。けれども、真実な救い主キリストに信頼して、私たちは、その日を待ち望むのです。
キリスト教信仰の祝福が、死の時の祝福で終わらずに、世の終わりの時の祝福で完成することは何を意味するのでしょうか。それは、私たちの望み見るべき救いが全包括的な救いであることを意味します。
第一に、魂だけでなく、肉体も救いの対象であるという意味で全包括的です。肉体は魂の付属物ではなく、人間にとって本質的なものです。私たちは、このからだで、存在することの喜びを感じとります。このからだが、古び衰え、病み痛み、障害を抱える時、人は人間としての苦しみをなめるのです。死の時、キリスト者はからだの悲しみから解放されますが、それで十分なのではありません。復活の日、栄光あるからだによみがえらされてはじめて、キリスト者は、十全な存在者として、永遠に神を喜ぶことができるのです。
第二に、個人だけではなく、全世界に、という意味で全包括的です。世の終わりの日には、世界大の規模で神の正義が実現する日です。キリストは、世界の審判者として、この世のすべての悪をさばかれます。そして、審判の後に、罪も悲惨も痛みも涙もない、新しい天と地とが現れるのです。キリスト者は個人的魂の救いだけでは満足しません。この世に存在するさまざまの悪、さまざまの罪と悲惨に目を向け、嘆き、悲しみ、義憤さえ覚え、非力ながらそれと戦い、神の義が全地に満ちることを念願します。それは、やがてそのような行為が徒労に終わらず神によって完成させられるものであることを信じているからです。
「アーメン、主イエスよ、きたりませ」(黙示録22:30)。自己中心的救いの観念ではなく神の栄光をあらわそうとするキリスト者だけが、切実にこの祈りをすることができるのです。
私たちは12回にわたって、キリスト教信仰の祝福の様々な側面を考えてきました。けれども、神さまの救いの恵みを語りつくすことはできません。あなたが、実際の信仰生活に入られるならば、さらに多くの祝福を味わわれることでしょう。大切なことは、キリスト者は、来世の幸福のためだけに現世を賭けてしまった者たちではないということです。キリスト者とはこの世にあって救いの祝福を豊かに味わい続け、かの世でその完成を望みみる者たちなのです。
「狭い門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い」(マタイ7:13)今あなたも、二つのわかれ道の前に立たされることになりました。この世でもかの世でも命と祝福に満ちるキリスト教信仰の道は、選んで悔いのない道なのではないでしょうか。
※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載