2019年4月23日(火) 小さな朗読会236「神の子とされる祝福」(「キリスト教信仰の祝福」山中雄一郎著)

 私が教会に通い始めたのは、小学校6年生の時からでしたが、日曜学校で教えてくれることの内で、最も素直に心に入ってきたのが、神さまは天のお父様で私たちはその子供なのだ、という教えでした。その年の1月に私は父親を亡くしておりましたから、特にこの教えが心にしみたのかもしれません。けれども、そのような特別の事情にない人にとっても、神さまは天の父で自分たちはその子供なのだとする教えは、耳に心地よいものではないでしょうか。ですから、キリスト教ではなくても、人間は神の子なのだとする教えは、多くの宗教が教えています。そのような教えと聖書の教えとは、どこで区別されるのでしょうか。

 第一に、聖書は人間すべてが生来的に神の子なのではなく、イエス・キリストを信じ、受け入れた者だけが、神の子とされるのだ、と教えています。人は神の子であるのではなく、神の子とされるのです。生まれながらの人間は、罪深い汚れた心の持ち主として聖なる神さまの怒りの対象でしかありません。しかし、イエス・キリストを信じる人を神さまは恵みによって、神の子として取り扱ってくださいます。神の子の数に入れられこと自体大いなる祝福なのです。

 第二に、神の子とされるということは、その人が人間であることを超えて神の性質を帯びる者とされるということではありません。そうではなく、これは、神さまとの関係をあらわす言葉なのです。神さまが、人間である私を、そのままに子供として取り扱ってくださる。これが神の子とされる祝福です。神の子とされる時、人は人間として生まれてきたことの最も大きな幸福を味わうことができるのです。

 この世にあるさまざまの愛情のうち、最も確実な愛情は親子の愛情だと思います。友情・恋愛・夫婦愛、それらは、親子の愛とは異なる素晴らしさをもっていますが、ときどき変化しますし、相手の愛が疑わしくなることもあります。けれども子供は親の愛を疑うことをしません。親が自分の幸福を願い、自分に配慮してくれることを、当然のことと前提しています。

 私たちが神の子とされるということは、神の愛を絶対確実なものとして信頼することのできるものとされた、ということです。
 この信頼に基づいて、私たちは恐れもなく神に近づき、神に祈り礼拝することができます。また、この信頼に基づいて、私たちは、神さまが私に必要なすべてをお与えくださり、ふりかかる苦しみも究極的には益としてくださることを確信し、日ごとの思いわずらいのすべてを神に委ねることができるのです。

 それだけではありません。子供は相続人でもあります。神の子とされたものは、やがて与えられる神の国の世継ぎとされたのです。人間の親子の絆は、どれほどに強いものであっても、死を境として断ち切られなければなりません。しかし神さまは全能の父です。死の力も、神から私たちを奪い去ることはできません。神の子とされた者は、死を越えて、望みを抱くことができるのです。

 イエス様はある時、放蕩息子のたとえ話をなさいました。そのたとえ話では、天の神さまは、家出をして放蕩する息子の帰りを待ち続ける父親の姿として描かれています。(ルカ15:11-32)

 わたしたちは放蕩息子のような者です。そのままの姿では、神の子と呼ばれる値打ちのない者ですが、神の子とされない限り惨めさを抜け切ることのできない者たちです。父なる神さまは、私たちが立ち返り神の子となるように待ち続けておられます。待ち続けるばかりではなく、積極的に私たちを尋ね出してくださいます。(ルカ15:1-10)私たちのために御子キリストをこの世に遣わされ、また、私たちの心に神を求める思いを起こしてくださり、神は、私たちが立ち返り、神の子となるために一切を備えてくださったのです。「私たちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を神から賜わったことか、よく考えてみなさい」(1ヨハネの手紙3:1)

 「(人間の悲惨)、それは王侯の悲惨であり、位を奪われた国王の悲惨である」
 パスカルの『パンセ』の中の言葉です。人間とは罪と死との力にとらえられた惨めな存在でありながら、自らが尊い存在であるという考えを捨て切ることができません。無気力で無為な日々を送る時、死の影におびやかされる時、私たちは、それを当然の姿とは見ずに、あるべきではない姿だと思います。“人はもっと尊い存在である筈だ”この思いが、現実の惨めさを一層惨めなものにしています。

 しかし、それでは、人は惨めな自分の現実をそのままに受け入れてしまうべきでしょうか。それは、人間が人間であること(尊厳)を打ち捨ててしまうことです。主イエスを信じ、「神の子」へ引き上げられることこそ、本当の解決なのです。


 ※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
 ※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載