2019年1月22日(火) 小さな朗読会233「信じることのさいわい」(「キリスト教信仰の祝福」山中雄一郎著)
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイによる福音書7:13-14 口語訳)
キリスト教に接する人々、聖書に接する人々は、いつも二つのわかれ道の前に立たされることになります。一つは命と祝福の道であり、もう一つは滅びと悲しみの道です。聖書が私たちに信仰を呼びかけているのは、ただそれが真理であるからだけではありません。真理であっても、信じる必要のないものはたくさんあるのです。たとえば、いろいろな学問の教えてくれるこまごまとした真理は、万人が信じる必要はありません。けれども、聖書が示している真理は信じる必要があります。なぜなら、それは私たちを命と死、祝福と悲しみのわかれ道に立たせ、私たちを命と祝福へと招く真理だからです。
それでは、イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰には、どのような祝福が伴うのでしょうか。私たちは、キリスト教信仰の祝福のさまざまな側面を考えてみたいと思います。
今回は、信じること自体の幸福について考えてみます。多くの宗教が信心に対する報いとしていろいろな幸福を約束しています。けれどもキリスト教信仰は、信じること自体の内にすばらしい幸福を含んでいます。なぜなら、キリスト教信仰の中心点は、「神さまが、私を愛しておられる」と信じることだからです。
聖書は神さまについてたくさんのことを教えてくれます。神さまが造り主であること、今も世界を支配しておられる全知全能の方であること、聖く正しく真実な方であること等々。けれども、神さまについてどんなに多くの知識を与えられても、「神さまが私を愛しておられる」という中心的な知識がなければ、すべての知識が無駄な役立たずの知識となります。神さまは愛である、という一般論だけでも駄目です。“神さまが個人的に、この私という人間を愛しておられる”このことを信じるように聖書は求めているのです。
聖書によりますと、神さまは私たちの命の造り主であられ、守り主であられますが、私たちは神さまに感謝することも神さまに従うことも忘れ、自分を中心として他人を傷つける罪人となり果てました。それでも神さまは、私たちへの愛を打ち切られず、かえって、御自分のひとり子イエス・キリストをこの世に下さり、私たちの罪のために、このひとり子イエスさまを十字架につけられました。こうして、神さまの深い愛は、言葉だけではなく、具体的な行動としてあらわされました。あらわされてみると、それは、人間の思い及びもしなかったような深い真実の愛でした。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」のです。(ヨハネによる福音書3:16 口語訳)
今も神さまは、この同じ真実の愛で私たちを愛しておられます。キリスト教信仰の中心点は、このような神さまの深い真実の愛が私に個人的に向けられていることを確認し、受け入れることにあります。ですから、このような信仰は信じること自体の内に、すばらしい幸福を含んでいるのです。神さまの愛を受け入れるとき、私たちは孤独から解放されます。
また、自分をくだらない人間と考え、自分の人生をつまらない人生と思ってきた人も、神さまが自分に愛を向けておられることを知るとき、自分と自分の人生を見直し、生きる喜びを与えられます。幸福は、神さまの愛のあらわれですから一層喜ばしいものとなります。不幸も、非情な運命のいたずらの結果ではなく、愛の神さまの与えられるものとして、何か意味のある、耐える値打ちのあるものとなります。ひとことでいえば、私たちは神さまの愛に包み込まれた日々を送ることとなるのです。
母親の愛情にすっぽりと包まれて上機嫌の赤ん坊を見ているのは楽しいものです。その上機嫌がこちらにも感染して、ほっぺたがゆるみそうになります。私たちひとりひとりも、かつてはあのような、すっぽりと包み込むような愛情の中にいたのです。けれども、私たちは、いつまでもそのような愛情に包み込まれているわけにはいきません。私たちの人格は成長し、入り組んだものになり、親にも包み込めないものとなります。そして私たちは、独立した人格として人生の独り歩きを始めるのです。
その独り歩きの中で、私たちはいろいろな愛情に巡りあいます。友情、恋愛、結婚の愛情。けれども、それらがどれほどにすばらしい愛情でも、私という人間の全体をすっぽりと包み込めるような愛情ではありません。そのような愛を人間に求めれば、その愛は破たんするほかはありません。それでも人間は、そのような愛を必要としているのです。そのような愛の欠けた人生は、どこか充たされていない人生なのです。父なる神の愛だけが、成人した私たちをもすっぽりと包み込める愛です。人間の尊厳も罪深さも知りつくされながら、御子を賜わったほどの深く真実な神さまの愛こそ、人生を充たす愛なのです。
※山中雄一郎著「キリスト教信仰の祝福」小峯書店(1983年1月、現在絶版)
※月刊誌「ふくいんのなみ」1981年1〜12月号にて連載