2015年3月31日(火) 独りの静けさ
イースターが近づきました。今度の日曜日4月5日です。
日曜日の礼拝のひとときは「独りの静けさ」の中、神様の家族と共に神様の前に出ます。すると心に神様からの語りかけが聴こえてきます。また、家でも病院でも施設でも「独りの静けさ」のなかに御声が聴こえてきます。実はこの言葉は数年前の夏のキャンプでいただいたのですが、ずっと私の心に刻まれています。
福音書を開くと、イエスさまはご生涯の中で、よく祈られるお方ということがわかります。「独りの静けさ」を大切にされたのでしょう。「朝早くまだ暗いうちに人里離れた所に出て行き祈っておられた。」(マルコ1:35)。いよいよ十字架におかかりになるという直前の園での祈りは、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:44)とあります。
昔の日記を開くと、不思議ですね。神様を知らないのに苦しみの中で「神様〜」と呼びかける自分がいるのです。思春期に聖書に出会いました。悩む時期ですから自分自身が生きる意味も何もわからず、ただ他人との比較と競争に明け暮れて、心から人を愛することができない醜い罪の現実に苦しんでいました。我が家の床の間に掲げてあった「天照大神」や「神棚」、そして拝みにきてくださる神主さんの姿。そこに「人間の祈る姿」を見てはいたのですが…。
「すべての人間の心には神についての感覚が刻まれている。宗教の種がある。人間の本姓そのものが神を忘れることができないのだ。だから神に思いを向けない限り、自分自身の現実を知ることができないのだ。」(「キリスト教綱要」第1巻)この言葉に出会った私は「確かにそうだ!」。と思いました。今日という日「独りの静けさ」を味わい、今度の日曜日にはお近くの教会のイースターの礼拝にぜひ。