2013年9月10日(火)生きる時も死ぬ時も(フィリピ1:21)
「えっ?なんだかヘン?」ある日突然というような気持ちでしたが急に喉が痛み耳鼻科に。すると「腫れてますね〜」と言われ4日間のお薬が出ました。急性咽頭炎。「あぁこのまま声が出なくなったらどうしよう」と悲しくなりました。待ったなしの番組録音に支障をきたしたら大変!と慌てましたが、速やかな快復の恵みをいただいて感謝でした。誰にも似たような出来事が日々いろいろ起こっていますよね? 試練や苦しみに直面すると、小さな人間の無力を思い知らされて叫ぶようになります。
8月の終わり頃に若き日に癌を患って亡くなられた青年のドラマがありましたね。主役が嵐の大野君。「生と死」を扱うことは大変重いことですから演じる方々も大変なこと。「ちゃんと生きて、ちゃんと死ぬ」という言葉が掲げられていました。カッコいい言葉だけれど…誰もがそうちゃんと出来るわけではありません。「なぜ人は死ななければならないのか」と聖書に出会った頃、私はずっと悩んでいました。年齢が幾つであっても死を恐れ怖いと思うのは同じです。
学生時代から親しかった友が余命2−3年と宣告を受け今年の春ついに亡くなりました。葬儀から帰っても涙はずっと止まりませんでした。親しく共に生きた身近な家族や友人が現実にいなくなるという大事件を受け入れることには時間がかかります。その友が闘病中「病の善用を祈る祈り」の中にあるパスカル祈りの言葉を知らせて下さいました。友の魂の深みに響いていたのです。
「主よ、わたしは告白します。わたしが健康をしあわせと思ったのは、健康をあなたのご用に役立たせ、さらにいっそう思いをつくし、心を傾けて、あなたにお仕えし、隣人を助けるのになにより好都合だったからではないのです。それどころか、健康を利用して、この人生に充満している楽しみごとに、なんのはばかりもなく没頭でき、そのいまわしい快楽を思うままに味わえるからだったのです。主よ、どうか腐りきったこのわたしの理性をあらためさせ、思いをあなたの思いに一致させてください。苦痛の中にあってもさいわいと思い、外側での活動がなにもできなくても、今後はわたしの思いがあなたの思いにさからうことのありませぬよう、まったくこれをきよめてください」(田辺保訳・教文館)。
この地球上に今350年前生きていた人間は誰一人生かされていません。不思議なことですが国も言語も文化も歴史も異なっているのに、人間として生きる苦悩は今を生きる私たちとそっくりです。
「なぜ、わたしの認識は限られているのか。わたしの身長は限られているのか。どんな理由があって、自然はわたしにこれだけの一生しか与えなかったのか。人間の混迷振りと悲惨さとを見、沈黙の意中を眺め、人間が何の光もなく、ただ一人放り出され、この宇宙の片隅に迷い込んだように、誰が自分をそこへおいたのか。自分は何をしにきたのか。死んだらどうなるかもわからず、何を知ることも不可能なさまを見つめるとわたしはぞっとする。」(パンセ「イエス・キリストにより知る神」P298-301)。
今でも人間は、「わたしはいったい何者か。どこから来てどこへ行くのか」と問い続けています。いのちの神秘を想い、いのちの限界を知り、ついに叫びが天への祈りとなっているのです。
新約聖書に「わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:21)というみことばがあります。わたし達が死をも乗り越える希望をいただいて「ちゃんと生きてちゃんと死ぬ」ことが出来るように聖書は語りかけてくるのですが、なんと死ぬことが利益とは? わたしもまた魂に衝撃を与えるようなこの言葉に出会い、喜びの大逆転を生きている一人です。 くまだなみこ