2010年2月16日(火)待合室にて−長生きは幸せ?−
ある日、定期健診で病院の待合室にいた時のことです。お隣の女性が声をかけてくださいました。待ち時間の間、あれこれとお話しすることになりました。どうも気分が悪い様子。見るからに弱っています。お隣のお母様は96歳で元気そう。
「いつまでも元気でいいわね」といい始めたとき思いがけない言葉が返ってきました。「親が長生きって大変ですよ…」。その言葉、私の耳に「あなたは苦しい現実を知らないでしょう?」と聞こえてきました。どこの誰だか全くわからない人間関係だからこそ言える本音だと感じました。建前は、周りの声にニコニコ応じていても、本心は違うことが私にはその表情からはっきりわかりました。
3人娘の長女である自分はもう75歳。夫が一緒に暮らすことを了解してくれて今まで来たけれど、「いったい僕たちの人生はなんだったのか…」と言われてしまうと辛くてたまらない、同世代の人たちは好きな旅行に夫婦で出かけ羨ましい。妹たちも嫁ぎ先の事情で助けの手は差し伸べられない。母親は96歳にもなると「あれこれ介護してくれるのが当たり前で、周りへの感謝の気持ちがもうわからないようだ…」と。親が生きていることは喜びではない。悲しみが深く、親への憎しみを垣間見た瞬間です。
他人事ではありません。皆年を重ね同じように弱っていくのです。その方は、自分が介護疲れで先に死んでしまうかもしれないという不安を抱えていました。親子だけでなく、夫と妻、親族、地域、あらゆる場での生きる苦しみが私たちを襲ってきます。私たち自身が病むこともあります。大地震のような自然災害も思いがけないところで襲ってきます。
病院の待合室の会話の中に見えてくる「建前と本音」。この間を揺れ動きながら考えました。私は自分をごまかして生きてしまうことはないか、と自問自答しました。その時は結局ただ聴くだけでした。黙って聴くこと、本音を言えること。これが一番!という気持ちでした。
あらゆる苦しみが私たちを襲ってくるとき、日曜日の礼拝で与えられる神様からの語りかけが深い慰めを与えてくれます。また、そこで共に生きている神様の家族たちが祈り支えてくれますね。ひとりぽっちじゃないんだ、と。
ちょうど今「月刊誌ふくいんのなみ」で「ハイデルベルク信仰問答」を学んでいますが、私はその最初の問いと答えを繰り返し味わいます。「生きるときも死ぬときも私は私自身のものではない。救い主キリストのものだ。」ということ。たった一度の命の時間、それもこの世界から小さな自分が消えてしまっても、世界は変わらず動いていくのですから、なんだかちっぽけな自分が生きることって空しく意味のないことのようにも思えてしまうことはないでしょうか?
「救い主キリストのもの」このことが私の心に深い慰めを与えてくれるのです。今日を生きることは空しくない、キリストの恵みの中を生きるとき、私がここにいること、それだけで神様が喜んでくださるのですから。
ここに秘訣がありますね。命の存在を私たち人間が謙虚に与えられたものとして見つめること。その命は生かされてそこにあること。「死なない、ということは必要とされて生かされているのだ」と。
昨日も教会で80過ぎの人生の先輩から教えていただきました。何年か前、倒れて3日間意識不明だったそうです。「でもまだ天国に入れていただけなかった」その顔は多くの苦しみを越えてきた人生。でも笑顔が美しかったです。きっと神様のお考えがあって生かされているのですね。今日を生きるあなたも私もそうですね。
ますますの「高齢化社会」を「好齢化社会」(以前、新聞で見た広告です)にするためにどうしたらよいか。その原点が「救い主キリスト」にあることをしみじみと思う毎日です。
では今日も河野進先生の詩集「カナの婚宴の葡萄酒」(聖恵授産所出版部)からひとつご紹介します。 くまだなみこ
「呼吸」
どのような 苦難を吸っても
はく息は 感謝でありますように
一呼吸もみな
天の父さまの お恵みですから