2009年11月3日(火)美しさへの三つの条件

「美しい!」と感じる一瞬、あなたはどんな瞬間でしょうか?
それぞれにあるでしょうね。今日は文化の日。どこかに美しさを求めて出かけますか?秋も深まるこの頃、紅葉の美しさに圧倒される瞬間もありますね。どこかに旅をしましたか?

先日も人間って美しい!と思ったニュースがありました。「世界最高齢の小学生」という記事です。ギネスに認定されたケニアの90歳の男性です。胃がんのため今年8月に召されたそうですが、卒業まであと2年だったとのこと。1950年にイギリスからの独立戦争を戦った秘密結社の元戦士。家庭の事情で通学できず読み書きができなかった男性は、ケニア政府が2003年から義務教育を無料化したため「聖書を読みたい。お金を間違わずに計算できるようになりたい」と2004年から小学校に通学。2008年に地元スワヒリ語で聖書を読めるようになり、夢は「大学を卒業して獣医師になること」と目標を話していたと伝えられています。90歳になっても向学心に燃え、夢を追い続ける人間。ひたむきなその生き方が素晴らしい、美しいと思えた瞬間でした。

人間が神様によって創造され、命の息を吹き込まれた(創世記2:7)存在であることを思う時、私は、雲の中に晴れ間を見るような、濃い霧が晴れるような思いを持つのです。「土を耕す」という創世記2章のことば、これが「カルチャー」の始まりです。神様に創造された人間たちは、自分たちもまた創造する喜びを持っているのです。
あなたの周りでもきっと美しいことが今日も起こっていることでしょう。リスナーからの心温まるお便りやメールにも美しさを感じます。「美学」という学問は、「感性学」とも言ったりもするようですね。美しさを感じるまっすぐな感受性を磨きたいものです。ところが、現実はそうスムーズにいきませんね。創造と堕落の物語(創世記1-3章)が、その原因を語っています。

さて、今日のタイトルの「美しさへの3つの条件」、これは以前も心に刻んだお話でしたが、この頃また思い出すことが多くなりました。
渡辺和子先生の「美しい人に」(PHP文庫)の中に出てくる「泥かぶら」のお話です。真山美保さんの作品とのことですが、みにくい少女が苛められ嘲られ、石を投げられ唾をかけられ苦しむところに一人の老人が通りかかり、怒り狂う泥かぶらに向かって3つのことを実行すれば村一番の美人になると教えて去っていく、というお話です。
それは、いつもにっこり笑うこと、自分のみにくさを恥じないこと、人の身になって思うこと、…物語は続いて行くのですが。この章の最後にはこのように書かれています。「ほほえみも、正しい自己認識も、思いやりも人が持って生まれたものではない。泥かぶらがそうしたように、私たち一人一人が自分とたたかいながら育てていくものである。私たち一人一人はそれぞれ泥かぶらなのだ。…」

神様によってこの世界と人間は極めて美しく創造されたのに、堕落の現実の悲しみが私たちを苦しめます。それでもなお美しく生きたいと願いながら何度も落胆する私たち。そこに希望があるとすれば、聖書の中にあらわされた真実に美しく生き抜いた救い主を知ることから始まるのです。この救い主を知って初めて私は、心から偽りなくにっこりできるようになりましたし、自分のみにくさを認めて救っていただきましたし、人の身になって思う隣人愛に生きることを教えられました。美しく生きる力をいただいたのです。確かに私は生きていたけれど死んでいたのです。死んでいたのに生き返ったのです。あの放蕩息子のように(ルカ15:11-24)。私は、救い主イエスさまを知ることによって生き返ったのです。神様の創造されたこの世界の中で美しく生きて行きたいと願うように変えられたのです。この恵みはあなたにも今注がれているのです。
「まぶねのなかに うぶごえあげ たくみのいえに ひととなりて まずしきうれい 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ」(賛美歌121)  くまだなみこ