2009年8月4日(火)ルーツ(1)人間に定まっていること
たった一度のいのちの時間が今日も流れていきます。でもある日、穏やかな日常がひっくり返るような日がやってくることがありますね。2か月程前の日曜日、私にその日はやってきました。遅くなってこれから休もうと思っていた深夜、牧師館の電話が突然鳴り響きました。妻が急に倒れ、救急車の中で召されたとの知らせ!夫婦二人で元気にその日曜日は礼拝に出席していたのですから、全く予測しなかった出来事です。急変した日常が始まったのです。あなたもそんな経験がありましたか?全く私たちが自由にすることのできない命の行方。「なぜなの?今どうして?」と叫んでもどうすることもできません。
突然愛する妻の命が召されるという厳しい試練を受けIさんは「まるで夢をみているようです」と語られました。出棺の時は、胸が詰まりながらも妻の思い出を語ってくださいました。1年半前病床に伏しつらい日々もありましたが、その後回復の希望を頂き一緒に生きたこの一年、元気になって「さぁこれからはゆっくりして一緒に旅に出ようね」と話していた矢先でした。「本当に幸せでした」とお話し下さいました。息子さんも、「母と一緒にいつも音楽がありました」と話され、友人から送られてきたというお母様の中学時代のポエムを初めて読み驚かれて読んでくださいました。「この時まで母が詩人であることは全く知りませんでした」と言いながら。
「私たちはいったいどこから来て、やがて、どこに行くのだろうか?」命のルーツ、8月は特に戦争や平和のこと、命の行方を思います。(実は、このラジオ伝道を日本で始めてくださったヘンリー・ブルノギ宣教師も8月8日になんとゴルフ場から天国へ。青空の中「希望の国に凱旋」という感じですね。)この世界に満ちるさまざまの命。この命を愛おしく大切に思い「死にたくない」と思いつつ、死が厳粛な事実であることを受け入れなければなりません。
日本の8月はお墓参りの季節。自分のルーツを思いながらご先祖様の所に行きます。私が小さな頃お墓に行くと「お墓でころんではいけない。怖いことが起こるかもしれないから」と言われて、おそるおそるしっかり歩こうとしたことを今でも思い出します。
聖書は人間について語ります。「人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている…キリストは救いをもたらすために現われてくださるのです。」(ヘブライ9:27-28)
突然召されたT子さんは、神様を礼拝しながら生きる人生を若い時から送られた方。毎週日曜日の礼拝に出席しながらやがて来る自分の死への備えをしていたのです。私は一緒に賛美歌をよく歌いました。あのことも、このことも・・「わすれられないおくりもの」の絵本のように頂いた命の贈り物をじっとかみ締めています。自分のことは後にして、皆さんの喜びのために励んでくださるT子さん。大きなお鍋にたくさん作ってくださった美味しいスープ。美しい声で歌ってくださった賛美歌。一緒に歌う時は、周りを引き立てるように縁の下の力持ちに徹してくださいましたし、礼拝でオルガンの奏楽もたくさんしてくださいました。
聖書は、私たちに語りかけます。イエス・キリストを罪からの救い主と信じる者は、裁かれることなく死から永遠の命に移されていること、やがて完成する神の国で、神の家族たちとの再会の希望があること。私たちのルーツは、聖書を通してあらわしてくださる生ける真の神様です。このお方が命を与えてくださいました。この希望をくださる神の愛が今日も私たちに迫っているのです。「生きる時も死ぬ時もあなたの唯一の慰めは何ですか?」「私が私自身のものでなく、生きるときも死ぬ時も主キリストのものであること…」(「ハイデルベルク信仰問答」より) くまだなみこ