2008年6月10日(火)あなたとわたしの生きてる時間 時のしずく
窓からの眺めは今日も雨。そんな季節がめぐる中で想うことがあります。たった一滴のしずく、でもそこからすべてが始まるのだなァと・・・・・。この一滴がなければ大海にはならない、というような言葉をずいぶん前どこかで聞いたことがありましたね。
ふっと気がつくと私はもうここにいて「オギャア」という一瞬は覚えていません。でもそこから一人一人「いのち」の時のしずくがぽとりぽとりと流れ出て、年を重ね、それぞれの今があります。あなたが今何歳であったとしても「わたしだけの時」が今ここにあります。この地球に生まれた時、自分で選んで男に、女にと生まれた人もいませんし、この国が気に入ったと国や民族を選べませんし、この時代が素敵だから、と原始時代に生まれるということもありません。 また「なぜ私をもっと美人に産んでくれなかったの!」と親に文句を言ってもダメですし、このありのままの現実があるだけです。いのちの長さも自分で決めることはできません。こう思うとこの世界と私たち、本当に不思議な時のしずくの流れの中を生きているのですね。
私が聖書に出会う前、この時の流れはとっても空しいものでした。目先のことを追求してもすぐ終わりが来ます。どこまで行っても満足もできません。いのちの行方も分からず死への不安が襲ってくるのです。私はいったい何者なのでしょう?なぜ今こうして生きているのでしょう?なぜやがて死ななければならないのでしょう?
聖書の詩編139:13-18にはこのように記されています。
「あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。
御業がどんなに驚くべきものか 私の魂はよく知っている。
秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。
あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
私の日々はあなたの書にすべて記されている。
まだその一日も造られないうちから。
あなたの御計らいは わたしにとっていかに尊いことか
神よ、いかにそれは数多いことか。
数えようとしても、砂の粒より多く
その果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる。」
本当に不思議です。私たちは自分自身ですら自分のことがよくわからないのです。あなた、そして、私をこのように創造された真の神様が、今この「生きているいのち」を育んでくださっているのです。時のしずくは、やがてそれぞれのいのちの終わりの時、時間も空間も超えた「永遠」に続きます。
イエスさまがこのようにおしゃっています。「わたしの父の御心は、子(イエス・キリスト)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネによる福音書6:40) くまだなみこ