2021年9月12日(日) 御名をあがめさせたまえ

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 主イエス・キリストが弟子たちにこう祈るようにと教えてくださった祈りに「主の祈り」と呼ばれる祈りがあります。この祈りでは神への呼びかけに続いて、神に関わる3つの祈願と自分たちに関わる3つの願いが述べられます。

 最初の願いは、神のお名前が聖なるものとしてあがめられますようにという願いです。祈りというと、まずは自分の願いや必要を切々と訴える祈りを想像するかも知れません。しかし、イエス・キリストが教えてくださった祈りはそうではありません。神が神としてあがめられますように、という思いから祈りが始まります。

 これは、神を神として認めない人々が神を認めるようになりますように、という祈りではありません。まず、自分自身が神の貴い御名を心からあがめることができますように、という祈りです。人は祈るときに、祈りを聴いてくださる神のことよりも、ついつい自分の願いや必要で心がいっぱいになってしまいがちです。祈りに耳を傾けてくださる神に思いが至らないということさえ起こりがちです。まるで、自動販売機に向かってお金を投入し、ボタンを押せば必要なものが出てくるような感覚で、祈りが終始してしまうことが私たちの祈りにはあります。

 しかし、主イエス・キリストが教えてくださった祈りは、祈りそのものを通して、神を礼拝する思いへと導かれる祈りです。「鰯の頭も信心から」というのとは違います。鰯のようにつまらないものに向かって祈っているのではありません。神は無機質なものではありません。呼びかければ答えてくださる、そういう対話が成り立つような人格をもったお方です。祈りの冒頭で「父よ」と呼びかけているのですから、父であられるこのお方との関係が祈りの一番に出てくるのは当然です。

 「あがめられますように」とか「尊まれますように」と日本語に訳されている言葉は、「清める」「聖なるものとする」という意味の言葉から来ています。神が清いお方であるということは、どんな宗教の人でも、その感覚は持っておられると思います、宗教施設に入るときに一礼をしたり、手を清めたりするのは、自分たちにとって清く貴い存在だと信じているからでしょう。

 キリスト教の場合、神の清さは、罪の汚れと正反対にあるものです。キリストによって罪赦され、聖なる神の御前に近づく恵みが与えられています。この祈りの言葉では、そのことが強く意識されています。キリストによって救われなければ、清さからは程遠いわたしたちが、自分の思いをむき出しにして神に近づくのであれば、それはもはや神をあがめているのではなく、神を自分の奴隷として扱い、神の清さをないがしろにしていることになってしまいます。もちろん神は、そういうわたしたちの罪深さにも忍耐して祈りに耳を傾けてくださるお方です。しかし、そうであるからこそ、いっそうのこと神の権威と清さを覚えなければならないのだと思います。

 祈りの冒頭に出てくる「父よ」という呼びかけの言葉は、イエス・キリストご自身が神を呼びかけるときに使った「アッバ」という言葉に由来しています。それは先週も触れた通り、幼子が父親を信頼して呼びかける言葉です。場合によっては、泥まみれになって遊んでいた子供が、父親の姿を見て走り寄って抱きつくときにも使う呼びかけかもしれません。しかし、それは決して父親の尊厳を低める言葉ではありません。父親を尊敬し、信頼しているからこそ出る言葉です。

 その言葉の通り、神に信頼し、神を尊ぶこと、そのことが主の祈りの中で第一に祈り願われていることです。今週一週間の歩みの中で、神が神としてあがめられる生き方ができますようにと心から願います。