2021年5月16日(日) 重荷を共に負って下さる方

 おはようございます。松山教会の久保浩文です。
 ゴールデンウィークも終わり、多くの方が職場や学校へと再び戻る頃となりました。とはいえ、新型コロナウイルスの感染防止のために、自宅でのテレワークやリモートによる授業という方もおられるでしょう。

 私たちの人生には、さまざまな重荷や苦労があります。追い立てられるような忙しさ、自分の思いや期待通りに事が運ばなかったり、人と人との様々な意見の食い違いなど、毎日が緊張の連続です。コロナはその上にさらに多くの不安とストレスを加えました。昨年から今年にかけて、本当に先行きのわからない不安が人々を襲っています。毎年のように自殺者の数が新聞紙上に発表されていますが、最近は10代や20代の「人生これから」と思われる年代の若者の自殺者数が増加しているのをみて、とても心が痛みます。私も同じ年代の子を持つ親として、「なぜ」「どうして」といろいろな思いにかられます。自分の人生そのものに失望、落胆するほどの疲れを、私たちはどうすればよいのでしょうか。

 主イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28-29)と私たちを招いておられます。イエス・キリストは、どのようにして私たちの重荷を下ろそうとしておられるのでしょうか。

 イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。軛とは、牛や馬を働かせる時に体につける道具です。軛を負わされている間は休みなどはなく、働かなくてはいけません。ですから本来、軛とは、労苦にしばりつける嫌なものです。しかし、イエスの軛を負い、イエスに学ぶ時には真の安らぎが得られるというのです。この言葉はちょっと矛盾しているのではないか、と思えます。

 イエスに学ぶとは、イエスの弟子になって、イエスの教えという軛につながれてみなさい、ということです。軛につながれることは一見、不自由なように思います。しかしこれは、わたしたちの真実をあらわしています。生きることの重荷は依然としてそこにあります。消えてなくなるのではありません。けれどもその重荷が、イエス・キリストと一つの軛につながれることによって、軽くなるのです。イエス・キリストが共に人生を歩んでくださり、様々な労苦、重荷をともに背負ってくださるからです。

 それは、自分ひとりで人生の重荷を負っていた時と比べて、はるかに軽く、心強いものです。重荷にあえいで伏せていた顔を上げて、前をみつめ、歩いていく希望と勇気が与えられます。イエスのもとに来て、その軽くされた軛を負うとき、わたしたちの人生はそれまでとは違って、希望と安らぎのある人生となるのです。


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