2020年12月20日(日) 生きていてよい
おはようございます。高知県、芸陽教会の大宮季三です。
新型コロナウイルス関連のニュースが連日報道される中で、キリスト教会もお互いの命をどのように守るべきか考えさせられながら、この年を過ごしてきました。その一方で、2020年は「自死・自殺」についてのニュースがたくさん報道された年でもありました。「有名なあの人」の死から、ふと「もしかすると」という思いで、お知り合いの心配をされた方も少なくなかったのではないかと思います。
「自分の存在を消し去ってしまいたい。」「自分はいない方がいい。」という衝動にかられ、自分の中から湧き出てくる刃(やいば)のようなものを、他人ではなく自分自身に向けてしまう状況へ追い込まれてしまいます。そこで起きている悲劇は、自分自身の命を自分自身で否定してしまうという悲劇です。「誰とでもフレンドリー」「みんなに愛されている」「裏表がない人」…外面的にそのように見える人であっても、人間は皆、心の奥底で、自分の命を肯定する声を求めます。聖書が記している「福音」、グッドニュースは、あなた自身の命を肯定するあなた自身への良い知らせです。
カール・バルトという神学者は次のように述べています。「『あなたは生きなければならない』ではなく、『あなたは生きていてよい!』これは人間が他人にも自分にも語ることができず、神自らが語ったこと、そして今も繰り返し語ることなのである。」
人間に命を与えることができるのは、唯一、真の神だけです。神に「偶然」はありません。ですから今ラジオをお聴きのあなたの命は、偶然が重なって存在しているというわけではありません。たとえどのような出生であったとしても、神があなた自身に命を吹き込んでくださったから、今、あなたはその場所に生きていてこのラジオを聴いています。他人でもなく、自分自身でもなく、唯一命を与えることができる真の神ご自身が、「生きていてよい!」と宣言し、あなたの命を肯定してくださいます。
神の子イエス・キリストは十字架刑によって処刑されました。クリスチャンでない方でも、十字架のアクセサリーを身につけている方が多くいらっしゃいますが、十字架とは古代ローマ帝国における処刑道具です。受刑者は十字の木に釘で磔にされ、じわじわと痛めつけられます。電気椅子や絞首刑よりも「残酷で無残な死」が十字架刑です。
さらに、イエス・キリストの十字架の死は「見捨てられた死」でした。イエス・キリストは同胞たち、弟子たち、さらにご自分の父である真の神からも見捨てられ、十字架にかかりました。約2000年前になされた神の子イエス・キリストの十字架刑とは、「無残で残酷」かつ「見捨てられた」、「呪いの死」です。
聖書は、この呪いの死があなたたちのために捧げられたものだと記しています。つまりイエス・キリストの死は「私たちの身代わりとしての呪いの死」です。イエス・キリストの十字架は私たちに対して「私が死ぬからあなたはこのように死ななくてよい!」「生きていてよい!」というメッセージを、今も変わることなく発し続けています。
今日は多くの教会で、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス礼拝が捧げられます。十字架での呪いの死を受け、私たちの命を肯定するために生まれてきてくださった神の子イエス・キリストを救い主として受け入れ、共にこの日をお祝いしましょう。