2020年11月1日(日) 律法に込められた神の愛

 おはようございます。南与力町教会の坂尾連太郎です。11月のメッセージを担当させていただきます。よろしくお願いします。
 今朝はルカによる福音書14章1節から6節に記されている御言葉に共に耳を傾けたいと思います。お読みいたします。

「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。』 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』彼らは、これに対して答えることができなかった。」

 この箇所でイエス様は、安息日に病人をいやすことは律法で許されているか否か、ということを律法学者たちに問うておられます。彼らは、その病気が命にかかわるものでないならば安息日にいやすことは許されていない、と考えていました。しかし彼らはイエス様を陥れ、訴えるために、イエス様の質問に対してはあえて黙っていたのです。

 イエス様はかまわずに病人の手を取り、いやされ、家に帰されました。それを見ていた人々はこれでイエスを訴えることができると思ったでしょう。しかしその前にイエス様のほうから彼らに言われました。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」

 イエス様は彼らが安息日に病人をいやすことは許されていないと考えていることをご存知でした。しかしイエス様は言われるのです。そのあなたがたも、もし安息日に自分の息子や牛が井戸の水に落ちてしまったら、すぐさま引き上げてやるのではないか。安息日だからといって明日まで放っておこうとする人はいないだろう。そうであるなら、水腫を患い、体に水がたまって苦しんでいるこの人を、なぜ安息日だからといっていやしてはならないのか、助けてはならないのか。それは矛盾ではないか。イエス様はこのことを鋭く問われたのです。そしてこれには誰も言い返すことができませんでした。

 イエス様は律法学者たちとは違い、安息日に病人をいやすことは律法で許されていると考えておられました。そしてそれを実践されたのです。しかし律法には確かに安息日には「いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:10)と記されています。病気をいやすことを仕事と考えるなら、それも安息日にはしてはならないということになります。しかしイエス様は、律法学者やファリサイ派の人々のように律法をただ表面的に読むということをされませんでした。そうではなく、律法に込められた精神、神様の御心からそれを読み、解釈されたのです。

 神様が安息日を定められたのは、いつも働かなければならない奴隷や家畜も休んで、元気を回復するためでした(申命記5:14、出エジプト23:12参照)。そのような神様の愛の御心がこの律法には込められていたのです。しかし律法学者たちはその律法をただ表面的に読み、安息日には病人をいやすこともしてはならないと考えたのです。そしてそれを破るイエスを批判し、攻撃しようとしました。

 私たちの時代にも、規則を破った人を周りの人々が攻撃するということがあります。コロナウイルスの感染が広がる中で「自粛警察」という言葉が聞かれるようになりました。一般の人が自粛をしていない人を取り締まろうとするのです。またネット上でも何か問題を起こした人を多くの人が一斉に攻撃し、批判するということが起こっています。

 もちろん規則やルールは必要です。しかしその規則が作られた目的をいつも忘れてはなりません。特に神様がつくられた規則、律法にはいつも神様の愛の御心が込められているということを忘れてはならないのです。それを忘れるとき、自分の家族や動物が苦しんでいるときには助けるけれども、それ以外の人は助けようとしない、また助けようとする人を批判するという、自己中心的で愛のない矛盾に陥ってしまうのです。

 私たちは規則によって人を裁き、攻撃するのではなく、律法に込められた神様の愛の御心を行なって歩む者でありたいと願います。