2020年9月13日(日) ぴえんこえてぱおん
おはようございます。高知県香美市にある山田教会で牧師をしています、高内信嗣と申します。先週からこのキリストの時間でお話をしています。どうぞ、よろしくお願いいたします。
今週もまた、今どきの若者の流行語をまとめた「2020年上半期女子中学生・女子高生流行語大賞」からお話をしていきたいと思います。今週取り上げるフレーズは、そのランキングの中の「コトバ部門」で5位にランクインした「ぴえんこえてぱおん」という言葉です。聞き取れましたか?もう一度言いますね。「ぴえんこえてぱおん」です。
私も最初に聞いた時、意味が分からな過ぎて、大爆笑してしまいました。まず言葉をひとつずつ解説する必要がありますね。まず「ぴえん」という言葉は、主に「悲しい、辛い」という意味をしているそうです。そしてその「ぴえん」よりもさらに悲しい様子を「ぱおん」というようで、「ぴえんこえてぱおん」。通常の悲しみを超えて、さらに悲しい様子を表しているということです。
初めに聞いた時は、若者の言葉についていけないと思いましたが、なかなか興味深い言葉だなと次第に感じてきました。言葉だけを見るならば少しゆるく感じられるかもしれませんが、今の若者からこの言葉が生まれてくるということは、若者たちも強い悲しみや苦しみを抱えて生きているということではないかと思わされました。人間というのは、若くても年をとっていても、悲しみを抱える存在です。いくら若者の言葉としても、ランキング5位に悲しみを表現する言葉があるということを重く受け止める必要があるのだと思います。
さて、聖書の中でイエス様も悲しみを抱えるシーンがあります。特に弱さを抱えた人に対して「深く憐れまれた」という言葉が出てきます(マタイ9:36参照)。イエス様の「深い憐れみ」とは「内臓が揺り動かされる」という意味を持っています。聖書の時代において、人間の感情は内臓にあると考えられていました。つまり「内臓が揺り動かされる」とは「人間の感情が揺り動かされる」ということです。イエス様は病を患った人や、大切な家族を失くした人、悪霊に取りつかれた人に対して、ご自身の感情が揺れ動くほどの思いを持たれたのです。
また、聖書にラザロという人が登場します。ラザロの家族はイエス様と非常に良い交わりを持っていました。そのラザロが突然、死を迎えるのです(以下、ヨハネ11:1-44参照)。姉のマリアはイエス様に対してこう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」そしてマリアと一緒に居合わせた人たちも一緒になって泣きました。その様子をイエス様は目の当たりにします。そしてイエス様は心に憤りを覚え、イエス様ご自身も涙を流されるのです。イエス様が涙を流される非常に貴重なシーンです。
イエス様は何に憤られたのでしょうか。それは人間が必ず死を迎える存在だからです。人間が死に屈しなければならない哀れな姿に憤られ、友が死を迎えた悲しみに涙を流されたのです。イエス様は感情がないお方ではありません。人間の悲しみ、そして人間が迎える「死」でさえも、感情を動かして悲しんでくださるのです。しかし、イエス様はただ悲しむだけでは終わりません。イエス様は最終的にラザロを死から生き返らせたのです。
私たちは多くの悲しみを抱えます。ぴえんこえてぱおんという表現のような、大きな悲しみに遭遇することがあるでしょう。そして死という最大の悲しみを避けて通ることはできません。しかし、イエス様は私たちの悲しみに寄り添って、共に苦しんでくれて、涙を流してくださるお方です。そして死を迎えなければならない悲しい存在の人間に、命を与えてくださるお方です。
「ぴえんこえてぱおん」という言葉は、実は「感極まって嬉し泣きする」、こういう意味でも使われるそうです。私たちの悲しみを担ってくださるお方によって、私たちは嬉し泣きをすることができる。どうかこの朝、悲しみを抱えているならば、このお方に身をゆだねてみませんか。イエス様はあなたをきっと受け止めてくださいます。