2020年8月30日(日) バベルの塔
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
海外に行ったときに一番困るのは言葉の問題です。逆に、日本に来る外国人にとっても、一番困るのが言葉の問題だと思います。英語やスペイン語や中国語のように、話す人口が多く、通訳できる人の数も多ければ、それほど不便も感じないかもしれません。しかし、かゆい所に手が届くようなコミュニケーションを取ろうとすると、やはり言葉は障壁になります。
ところで、旧約聖書の中には、どうして様々な言語が生まれ、言葉が通じないようになったのか、そのことを描いた話が出てきます。創世記11章に記された『バベルの塔』の話です。この話の出だしはこんな言葉で始まります。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」(創世記11:1)
そして、バベルの塔の話は、こう結ばれます。「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創世記11:9)
ここだけを読むと、同じ言語だった人類が、神によって言葉が通じないように混乱させられた話、と思われてしまうかもしれません。しかし、バベルの塔の話は、ただ単に言語が異なるようになった由来を説明した話ではありません。聖書全体がそうであるように、この話もまた、人間の罪深さと神の恵みの介入がそのテーマです。
では、バベルの塔が描く人間の罪深さはどんな点にあったのでしょうか。それは二つの点に現れています。一つは「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」とした点です。高い建造物を建てようとする人間の企ては、今も昔も変わらない気がしますが、問題なのは、天にまで届かせようとする思い、言い換えれば、そのような手段で神に近づくことができるという思い上がりです。しかも、そのことで名をあげようとする企ては、決して神との正しい関係を保つ企てではありません。
第二に、そのような高い塔を持つ町を作り上げることで、人々を一つの町に集中させ、全地に人が散らないようにとする企てです。それは「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1:28)とお命じになる神の言葉を完全に無視する企てです。そこで神は、そのような人間にとって益とならない企てを止めるために、話す言葉が互いに通じ合うことがないようにと、言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにされたのです。
罪深い世界にあっては、言葉は諸刃の剣です。同じ言葉によって意思疎通を図り、良い企てを生み出していくならば、言葉が同じであることは恵みです。しかし、同じ言葉を話すことで結託し、悪い企てを生み出すなら、言葉が簡単に通じ合うことは決して手放しで喜べることではありません。
こうして、地上から天に向かって塔を建てようとする企ては砕かれましたが、神に近づく道が閉ざされたわけではありません。後に神は、ヤコブという人物に一つの夢を見せました。それは、天から地上に向かってのびる階段の上を、天の使いたちが降ったり昇ったりする夢です。(創世記28:10以下)
人間がどんなに自分の力で階段を積み上げても、神に近づくことはできません。しかし、神の側から地上に向かって差し伸べてくださる階段こそ、神と人とを結ぶ階段です。
それから何百年も後に、神から遣わされたキリストはこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)
そうです。イエス・キリストこそ父なる神と地上とを結ぶ階段なのです。