2020年8月2日(日) カインとアベル
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
旧約聖書の『創世記』には、人類の起源と堕落の話が記されています。その堕落して悪に染まった人類の行く末は、いったいどうなるのでしょう。そこに記されている話は、決してただの昔話ではありません。自分たちの生きている世界を見回すと、同じようなことが繰り返されています。文明は進歩しているとはいえ、人間の心はそれほど進歩していないように感じます。
さて、エデンの園を追放された人類の祖、アダムとエバには二人の男の子が与えられました。兄の名はカイン、弟の名はアベルです。こうしてエバはその名前の通り、命あるものの母となる恵みにあずかりました。子供たちはそれぞれに成長して、兄のカインは土を耕す者になり、弟のアベルは羊を飼う者となりました。一家の生活を支える大切な働き手です。エデンの園を追われたアダム一家にとって、それでも神の祝福を感じる日々だったことでしょう。
けれども、そんな小さな幸せを感じていた家族に事件が起こります。それは、兄と弟がそれぞれ神にささげた献げ物が原因でした。兄のカインは地の産物から、弟のアベルは羊の群れの中から、しかも、よく肥えた初めて生まれた小羊を献げ物としました。それぞれ違う献げ物ですが、種類が違うというだけではありません。明らかに心の込め方が違っています。
神は献げ物だけに目を留められたのではなく、それを献げる人にも心を留められました。ですから、聖書にはこう書かれています。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」(創世記4:4-5)
神のこの扱いに、カインは怒りをあらわにします。そもそも、人間の怒りには二通りあります。それは間違ったことに対する正しい抗議の怒りと、一時の感情から出てくる屈折した怒りです。カインの怒りは明らかに正しい抗議の怒りとは違っていました。まっすぐ神を見ることができない怒りです。自分がなぜそのような扱いを受けたのか、カイン自身がその理由を知っていたからです。神はその点をはっきりとカインに指摘します。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」(創世記4:6-7)
神がカインに語った言葉はそれだけではありません。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4:7)とカインに警告されます。正しくない怒りは心の中で増幅し、やがては悪い行動を引き起こすからです。罪の根っこは何と恐ろしいことでしょう。
この罪の力には、文明の差などあまり関係ないように思われます。どんなに文明が栄える国でも、罪の力を制圧したとは思えません。カインの心は、今なお人間の心の中に生き続けているように感じられます。神の警告に耳を傾けなかったカインは、恐ろしいことにとうとう弟を誘い出して殺してしまいます。しかも、神から弟の行方を聞かれても「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」(創世記4:9)と、しらを切ります。自分の罪を告白するチャンスを、頑なにも自分でつぶしてしまいました。
さて、この話の結末はいったいどうなるのでしょう。カインは「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」(創世記4:13)と言葉を吐きます。この言葉の真意がどこにあるのかはわかりません。しかし、神はカインの命が狙われないようにと特別な印をカインに与えられました。この悲惨な話の結末は神の特別な配慮で終わっています。罪の世界に恵みをもって接してくださる神こそ、わたしたちの希望です。