2020年4月5日(日) 自分自身のために泣け

 おはようございます。お元気でしょうか。今日から教会の暦の上では受難週です。イエスが十字架で苦難の死をお受けになったことを覚えながら過ごす週です。

 今朝の聖書の箇所(ルカ23:26-29)には、十字架に向かって「悲しみの道」を歩まれるイエスのお姿があります。現在でもエルサレムでは毎週金曜日午後3時から多くの巡礼者がこの「悲しみの道」を主イエスの御受難を覚えつつ歩む習慣があります。そのようにしてイエス・キリストの御受難を覚えることは悪いことではありません。しかしイエス・キリストご自身が私たちに求めておられることは、それとは少し別のことだと私は思います。

 今朝の聖書には、十字架への道を歩まれる主イエスを取りまく人々の姿が描かれています。「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」(ルカ23:27)と記されている通りです。特にここでは「嘆き悲しむ婦人たち」に注目したいと思います。主イエスご自身がこの婦人たちに特に注目されたからです。おそらくこの婦人たちは十字架を背負って歩んでおられる主イエスのあわれな姿に同情の涙を流したのでしょう。

 しかし、主イエスはこの婦人たちに対して思いもよらぬ言葉を投げかけられました。「エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」(同28節)痛烈な言葉です。主イエスは「人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。」(同29節)とさえ言われました。神が下される裁きのことを語られたのです。なぜこのような激しい言葉を語られたのでしょうか。

 あらためて主イエスが何のために十字架への道を歩まれたのか、何のために十字架の死を遂げられたのかを思い起こす必要があります。聖書の答えはこの点で明確です。私たちを罪から救うために、私たちの罪を私たちに代わって十字架で償うためでした。そのために十字架への道を歩まれたのです。

 しかし、この嘆き悲しむ婦人たちはそのことに全く気づいていません。救われなければならない自分自身の罪の姿に気づいていなかったのです。そのことを指して「自分自身のために泣け」と、この婦人たちへの思いを込めて言われたのです。

 これは象徴的なことです。私たちが聖書を読み、信仰について考える時にも起こることです。「聖書読みの聖書知らず」ということが起こりうるのです。聖書を理解するキーポイントというものがあるのです。聖書の心臓部はキリストの十字架です。自分自身と自分の罪に泣き、キリストの十字架を仰ぎ、信じ、救われること。これこそ聖書の心臓部です。そのことを教え、そのことへと導くために「自分自身のために泣け」と言われたのです。

 このような意味において、今朝の聖書の箇所にもう一つ印象深い出来事が記されています。それは「田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(同26節)という出来事です。聖書を調べると、この人は後にクリスチャンになったようです。いずれにしましても聖書は“主イエスの後に従って十字架を背負う一人の人”をここで描いています。とても印象深い姿です。聖書は何を言いたいのでしょうか。悲しみの道を歩む主イエスを本当に思うことは、ただいたわしいとして嘆くことではない。エルサレムの「悲しみの道」を巡礼するのでもない。自分自身の罪に泣き、罪を悲しみ、十字架を仰ぎ、主を信じて主に従うことの大切さを教えようとしているのです。このことこそ、この受難週の日々に私たちが深く覚えるべきことではないでしょうか。