2020年3月15日(日) 魂を潤す真の水
おはようございます。松山教会の久保浩文です。
イエス・キリストは、弟子たちを連れて様々なところに出かけて、神について、私たちの救いについて、話をされました。(以下ヨハネ4:1-30参照)
ある時イエス一行は、南のユダヤから北のガリラヤに向かって旅をしました。ガリラヤへの最短コースは、サマリアを通る道でした。しかし当時、ユダヤ人はサマリア人とは仲が悪かったので、普通はサマリアを避けて遠回りしていました。そこをイエス・キリストは、あえてサマリアを通る道を選ばれました。その道に、ひとつの出会いが待っていました。
サマリアのシカルという町に入ると、井戸がありました。弟子たちは食べ物を買いに町へ行き、イエスは井戸のかたわらに腰をおろされました。時は正午ごろ、旅の疲れと照りつける太陽に喉の渇きを覚えておられたその時、一人のサマリアの女性が水を汲みにやってきました。イエスは彼女に「水を飲ませてください」と言われました。
私たちからすると、何の不思議もない、自然な成り行きに思えますが、このサマリアの女性にとっては、非常な驚きでした。まず、この時刻、誰もいないだろうと思っていたのに、見るからにユダヤ人の旅人がおり、しかもサマリア人の自分に「水を飲ませて」と声をかけてきたのです。
彼女は率直に「ユダヤ人のあなたがサマリア人の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」と尋ねました。すると、もっと不思議な答えが返ってきました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
「生きた水」とは、水脈からこんこんと湧き出てくる水のことです。ここから話は、喉の渇きをいやす水ではなく、魂を潤す水の話になっていきます。
彼女が、皆が水汲みに来る涼しい時間を避けて、わざわざ真昼に井戸に来たのには事情がありました。イエス・キリストはすべてご存知の上で、彼女に声をかけられたのです。彼女は、何か話がかみ合わない、と思いながらも、会話を続けずにはいられませんでした。「生きた水」という言葉が、疲れ、渇いた心に響いたのです。
さらに「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」というイエスの言葉に対して「またここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と答えたのは、御言葉の本当の意味を全く理解しなかったように見えます。が、少なくとも、今目の前にいる方が特別なお方であることを感じ取ったようにも思えます。
それからも会話は続き、ついに、イエス御自身から、自分が「キリストと呼ばれるメシア(救い主)その人」だ、というお答えをいただきます。彼女は自ら、町の人々のところに出て行って「メシアに出会いました」と話します。もはや人目を避けてはいません。彼女は確かに「生きた水」をいただいたのです。
キリストとの出会いは、はじめは思いがけないものであるかもしれません。しかし、キリストは私たちにわざわざ出会ってくださり、問いかけ続けてくださっています。ラジオの前のあなたも、どうか、イエス様に出会ってくださり、永遠の命に至る水を得てくださるように、と祈ります。