2020年3月8日(日) 赦された恵み

 おはようございます。松山教会の久保浩文です。
 ある時、イエス・キリストの弟子の一人であるペトロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」と問いました。当時の習慣として3度までは赦してよいが、限度を超えたらあとは赦さなくてもよいと言われていました。ペトロは暗に、自分はそれ以上の忍耐と寛容さを持っていると言いたかったのでしょう。しかしイエス・キリストの答えは、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」というものでした。これは「無制限に赦しなさい」ということです。イエスは一つのたとえを話されました。(マタイ18:21-35参照)

 ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとしました。早速、1万タラントンの借金をしている家来が、王の前に連れてこられました。1タラントンとは6千デナリオンで、当時の労働者の一日の賃金が1デナリオンですから、1万タラントンとなると、一生かかっても到底返すことのできない、想像を絶する金額になります。王は彼に「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」命じました。

 しかし、ひれ伏して必死に猶予を求める家来を王は憐れに思い、なんと彼の借金を帳消しにしてやったのです。命拾いをした思いで外に出た彼は、そこで、自分に百デナリオンの借金のある仲間にばったり出会いました。1万タラントンに比べればほんの少しの額です。この仲間もつい先ほどの彼と同じように返済の猶予を願いました。

 ですが、この家来は容赦せずに仲間を引っ張っていき、牢に入れたのです。これを見た同僚たちは心を痛め、王にこのことを告げました。王は「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と激怒して、今度は借金を全額返済するまで牢に入るように、役人に引き渡しました。

 このたとえに出てくる王は神を、家来は私たち一人ひとりを表しています。私たちは、生まれた時から神を知らず、神に背を向け、神を悲しませながら生きています。その罪の大きさも、罪があることさえも気づかずに過ごしています。その大きな負債は、私たち自身の努力や精進では決して返すことのできないものです。それにも拘わらず神は、私たちに対する深い憐れみ、愛をもって、神を信じる者を無条件に赦す道を備えてくださいました。

 罪のない神の独り子イエス・キリストが、自らその身に私たちの全ての罪、負債を負って十字架についてくださり、私たちに代わって代価を払ってくださったのです。イエス・キリストの身代わりの死によって罪への裁きはなされ、イエスを信じる者への赦しが用意されました。神はこの救いの道を、私たちがまだ神に逆らい続けている時から用意され、私たちへの愛を示してくださいました。

 この神の愛と憐れみを知ること、知識としてではなく、心から信じて受け入れる時に、私たちは自分の罪が神に赦された恵みを覚えて感謝し、人に対しても赦し、受け入れることができるようになるのです。赦された喜び、愛された喜びを真に知る者だけが、真に人を赦し、愛することができるのです。「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソ4:32)