2020年3月1日(日) 宴への招待
おはようございます。松山教会の久保浩文です。
イエス・キリストは、天の国のたとえの一つとして、ある王が王子のために催した婚宴のようだと言われます(マタイ22:1-14参照)。王から招待されることは大変名誉なことです。当時の習慣では、招待は2度、3度ありました。最初に宴を催すことが知らされます。ですから、客は前もって招待を受け、それを承諾していました。主人は、出席してくれる客人の顔を思い浮かべながら、最高の食材や上等のぶどう酒を用意し、細心の注意を払って準備をします。当日に2度目の招待がなされ、いよいよ宴が始まるのです。
ところが、このたとえでは、当日「招いておいた人々」を呼ばせたが彼らはそれに応じなかった、というのです。王は寛容かつ忍耐強く別の家来たちを使いに出して「食事の用意が整いました。すっかり用意ができています。さあ、おいでください。」と丁重に招きました。しかし人々はこの王からの光栄ある招待を無視しました。彼らの関心は別のところにあったのです。一人は畑に、一人は商売に出かけました。今日一日、仕事をさぼったら収穫が危うくなる、損をする、といった具合です。もっと悪質な者は、王の家来を捕まえて、乱暴して殺してしまいました。
このたとえに出てくる「王」は神であり、「王子」は救い主イエス・キリストです。天の国の宴とは、王である神がイエス・キリストのために催す宴です。人々がメシア、イエス・キリストを信じて救われるように、神はキリストとの食卓の交わりへと人々を招いておられます。
神はこれまでにも、家来である預言者を私たちのもとへと遣わして、自分の宴の席に連なるように、と招きました。王は、招きを断った者に対して「軍隊を送ってこの人殺しどもを滅ぼしその町を焼き払った」のですが、これは最後の裁きのことを語っています。しかし神は、むしろこの時までに、一人でも多くの者が招きに応じてくれることを望んでおられます。
出席を拒んだ招待客の代わりに、王は家来に命じ、町の大通りにいる者を誰でも連れてこさせました。善人も悪人もすべてです。そこには何の差別もありません。ただし、宴に出るためには、ふさわしい「礼服」を着なければなりません。何の用意もない客たちのために、礼服は王から支給されました。しかし中に一人だけ、せっかく王から支給された礼服を着ていない者がいました。礼服を着る必要がない、と思ったのです。
私たちは神の前ではみな、罪があり、そのままでは誰も神の御前に立つことはできません。神の前に出るには、ふさわしい衣服を身につけなければなりません。しかしこの礼服は私たち自身で用意できるものではありません。神が私たちに装わせて下さる救いの衣であり、イエス・キリストが十字架で命を献げてくださったことによって用意してくださる衣です。私たちは、キリストを信じることによって、その衣を与えられます。「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて…、キリストを着て」いる者となるのです(ガラテヤ3:26-27)。
一人でも多くの方が、神の招きに応じ、救いの衣を身にまとってくださることを願っています。