2020年2月23日(日) イエスと出会った人々4「サマリアの女」
おはようございます。広島教会の牧師、申です。お元気でしたか。今日は、聖書の中でイエスに出会った人々というシリーズの最後として「サマリアの女」(ヨハネ4:1-42)についてお話しさせていただきます。
「サマリアの女」と言っているのは、聖書がその女の名前を明かしていないからです。聖書は、ただ「サマリアの女」と言っています。「サマリア」というのは、昔イスラエルが南北イスラエルに分裂していたとき、北イスラエルの首都でした。しかし、北イスラエルはアッシリア帝国の攻撃を受けて敗戦し、国を失いました。アッシリアの王は帝国の各地から人々をサマリアに移住させ、次第にサマリアはイスラエルの神を礼拝する場所から偶像を礼拝する場所として変わり、人々も混血して純粋なイスラエルの姿を失ってしまいました。
そのような歴史があったので、ユダヤ人とサマリア人の仲はそれからずっと悪くなっていたのです。ユダヤ人たちが旅をするとき、よくこのサマリアを通らず遠回りしていたともいわれています。しかしイエスは旅の中で、弟子たちを連れてサマリアに入りました。そして井戸のある場所で、旅の疲れを取るためにひと休みしているとき、水くみに出てきたこのサマリアの女に出会うわけです。
時は真昼の正午ごろです。このような時間は暑すぎてあまり水くみに出ない時間ですが、この女はなぜかこの時間に出てきました。そこで井戸の側でひと休みしているユダヤ人と遭遇しました。彼女としては、まさか自分に話しかけることはないだろうと思ったのですが、何とその人が自分に向かって話をしました。「水を飲ませてください。」(7節)
彼女はびっくりしました。女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか。」(9節)と言いました。イエスは「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)と答えました。
このとき女は少し雰囲気の違いを感じたようです。「主よ、あなたはくむ物をお持ちではないし、井戸は深いです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」(11-12節) イエスはお答えになりました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(13-14節)
イエスがここで言っている「生きた水」というのは「井戸水」のことではありません。あるいは別の水を水筒で持っているのでもありません。生きた水とは、イエスご自身のことです。つまり、ご自身を信じなさいという意味のことだったのです。女はそのことを知らなかったかもしれませんが、求める心はありました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(15節)といったのです。結局、この女はイエスの教えに驚き、またその教えを信じるようになりました。そして町に行って多くの人々にそのことを伝えたのです。
人は、神に追い求め続ける傾向があります。もっともっと力ある神、ご利益を与えてくださる神を追い求めますが、それは限りがありません。水を飲んでも飲んでも渇くのと同じです。しかしイエスに出会うならば、他の神を求める必要はありません。それは、イエスこそ本当の神であり、本当の力を持っておられるからです。このイエスに出会ったサマリアの女は、永遠に渇くことのない生きた水を手に入れたのです。
リスナーのあなたも、この「生きた水」に出会ってみませんか。イエスはあなたを待っておられます。