2020年1月19日(日) イエス・キリストと出会った人たち-シモン・ペトロ

 おはようございます。高知市上町4丁目にあります、日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。
 今月は、「イエス・キリストと出会った人たち」というシリーズで聖書に聴いています。イエス・キリストと出会うと、人は新しい人に生まれ変わります。それがどのようにしてなされるのかを聖書の登場人物をあげて見ていきたいと思います。第3回は、シモン・ペトロとイエス・キリストの出会いです。(ルカ5:1-11参照)

 イエス・キリストがゲネサレト湖の湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆が周りに押し寄せてきました。イエス・キリストはシモンの舟に乗り、岸から少し漕ぎ出したところで、群衆に教えられました。イエス・キリストは話し終わると、今度はシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」(4節)と言われました。

 しかしこれはプロの漁師にしてみれば、あまりに唐突で、実に馬鹿げたことでした。プロの漁師が夜通し働いたのに、全く獲れなかったのです。またその網は、夜にしか使えないものだったのです。当時、漁師が使用していた網はリネンでできていましたので、日中は魚にもよく見えるため、魚が網にかかることはありませんでした。これはプロの漁師からすれば、無駄なことであると火を見るより明らかだったのです。

 しかも、シモンとその同労者たちは徹夜で漁をしたので、体は冷え切り、空腹で、疲れ切っていたことでしょう。こうあっては、再び舟を漕ぎ出して漁をするのはうんざりだったはずです。けれどもシモンはここで、イエス・キリストのお言葉に従い「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(5節)と言って、沖へ漕ぎ出して行ったのです。

 するとどうでしょう。おびただしい数の魚が獲れたのです。それを見てシモンは、自分が汚れた罪人であること、そして罪の深さをいまだかつてなかったほどハッキリと悟らされたのでした。そしてイエス・キリストと自分との大きな違いに気付き、恐怖のあまり後ずさりするようにして、その聖なる方の臨在から遠ざかろうとして言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(8節)神の荘厳さ、聖さの前に打ちのめされたペトロを起こし、イエス・キリストは言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節)これは、神の尊いお働きへの、シモン・ペトロに対する招きの言葉です。とくにこの語尾が大切です。

 ただ事実として、あなたは「今から後」「人間をとる漁師になる。」この事実だけを語られるのですね。「神の言葉」には力があります。「神の言葉」が語られると、必ずその通りになります。つまり、全能の神が何かを宣言されると、その当人がどう思おうが、必ずその通りになるのです。それは昼間の大漁の奇跡を通しても明らかにされました。

 シモン・ペトロは漁師のままでいれば、これからも、少なくとも必要な収入を得られて、平穏無事な生涯を送ることができたかもしれません。それなのに彼は、その確かな生活の手段である舟も大量の魚もすべて手放して、イエス・キリストに従いました。しかし彼は決して無謀な判断をしたのではありません。シモン・ペトロはイエス・キリストの奇跡の業を通して、本当に確かなものが何であるのかを知ったのでした。

 その確かなものとは「神の言葉」です。この「神の言葉」には力があり、「神の言葉」が語られるとき、必ず「神の御業」がそこに伴うのです。そのことを知ったので、シモン・ペトロはすべてを捨てて、イエスに従うことができたのでしょう。今までの古い自分の人生から、イエス・キリストにすべてを委ねる人生へと、新しく歩み出すことができたのでしょう。シモン・ペトロは、漁師でした。魚を獲ることしか知りませんでした。しかしイエス・キリストに恐れをもってすべてを捨てて従ったので、本当に「人間をとる漁師になる」ことができたのでした。

 イエス・キリストは、確かな力ある神の言葉であなたを導びこうと、あなたのことも招いてくださっています。この恵み深い招きに応えて、あなたも自分の考え、自分の判断の不確かさを捨ててイエス・キリストに従う者になりませんか。神の言葉には力があることを確信して、「神の言葉」に従う生活を始めませんか。