2020年1月5日(日) イエス・キリストと出会った人たち-シメオン
新年あけましておめでとうございます。高知市上町4丁目にあります、日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。つい先日クリスマスをお祝いしたかと思えば、もう新年を迎えましたね。新しい年を、あなたはどのような気持ちで迎えられたでしょうか。多くの方が、心を新たにして新年をスタートされたことと思います。
さて、今週から連続で「イエス・キリストと出会った人たち」というシリーズで聖書に聴きたいと思います。イエス・キリストと出会うと、人は新しい人に生まれ変わります。それがどのようにしてなされるのかを聖書の登場人物をあげて見ていきたいと思います。第1回は、シメオンという人とイエス・キリストの出会いです。
イエス・キリストが生後8日目に神殿に連れて来られると、シメオンは「霊」に導かれて神殿の境内に入って来ました。そして、そこで出会った幼子が神の御子イエスであることに気づいて腕に抱き、神をほめたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2:29-30)
彼の人生は、救い主イエスにお会いすることによって「安らかに去る」ことのできる、悔いのない、喜びの人生に変えられました。人は人生を「安らかに去る」ために、様々なことを根拠とします。立派なことを成し遂げたとか、立派に子どもを育て上げたとか、多くの財産を子どもたちに残すことができたとか、心残りなく人生を楽しんだとか、色々あると思います。けれども、それらのためだけに人生を使い果たしてしまったら、それは非常にもったいないと言わなければなりません。なぜなら、私たちの人生は、この世の楽しみと満足で終わるものではないからです。「神の救いを見た」といって世を去ることのできる人生の、大きな喜びと深い平安は、他の何物によっても得られない価値あるものです。
でも、なぜシメオンは、幼子イエス・キリストに出会うことができたのでしょうか。2つのことが考えられます。1つは、シメオンには「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない。」(ルカ2:26)という約束が神から与えられていたからです。もう1つは、シメオンが神の約束を信じて、イエス・キリストの訪れと救いをずっと熱心に待ち望んでいたからです。彼について、聖書は「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(同2:25)と記しています。
シメオンは、暗く混乱した当時のエルサレムで「救い主イエスにお会いすべき者」としての一生を送ったのです。それは、まさに緊張の人生であったはずです。この世の楽しみに流されることなく、また、この世の悲しみに絶望することもなく、彼は「救い主にお会いすべき者」として、暗く混乱したこの世と独りで戦っていたのです。毎日、孤独感を覚えつつ、人知れず戦っていたのです。
彼は、イエス・キリストこそがイスラエルのたった一つの望みであると知っていたのです。ですからこれほどまで熱心に、この世のすべての楽しみから離れて、祈りながら救い主を待ち望んでいたのです。そして彼は、ついに神の子、救い主であられるイエス・キリストに出会うことができたのでした。何十年も待ち続けて、やっとお目にかかれたのです。そのときの彼の喜びは、どれほどのものだったでしょう。それは、人生で最高の喜びであったに違いありません。
このお話は、約2000年前に起こった出来事です。では、今日の私たちは、イエス・キリストと出会うことができるのでしょうか。はい、できます。
今日は、イエス・キリストは肉体をもっては地上におられません。けれどもイエス・キリストの霊、すなわち聖霊によって私たちと出会ってくださいます。イエス・キリストを待ち望む人には、聖霊が働いてイエス・キリストに結びつけてくださいます。さらには、やがてイエス・キリストが再びこの世に来られるときには、ご自分を待ち望んでいる者たちに、完全なる救いを与えてくださいます。ですから、今日でもイエス・キリストを待ち望む人には、イエス・キリストとの出会いと「救い」が訪れるのです。
今朝このラジオを聞いているあなた、あなたもイエス・キリストによってのみ与えられる「救い」と、慰めに与りたいと思いませんか。シメオンのように、救い主イエス・キリストを心に受け入れ、イエス・キリストの再臨を心から待ち望む人生を、この新しい年から始めましょう!