2019年6月30日(日) 光ある内に
おはようございます。平和の君教会の山下です。
きょうは、自分自身のことを少しお話しさせて頂きます。わたしは現在66歳で、教会の牧師をしています。わたしの生まれた家には大きな仏壇が置かれ、両親が毎日手を合わせていました。大学2年の時、自分は一体何者であり、どこに向かって行けば良いのか判らなくなり、自分探しの旅に出ました。京都や奈良の寺院を巡り、仏像を見て廻りました。仏教研究家である和辻哲郎の仏像解説「大和古寺探訪」にも啓発されてです。手が千本もある千手観音像、頭が東西南北すべてを向いている仏様など、どこか感心しながらも他方で戸惑いを強く覚えていました。
しかしある時、ふとこれまでの人生を振り返ってみると、そこにキリスト教との関わりがあったことに気付かされたのです。例えば小学校の時、家のすぐ近くにカトリック教会があり、そこで書道教室やソロバン塾が持たれシスターに教わったこと。高校卒業の時ガールフレンドが突如洗礼を受けることにしたと言い出し、動揺したわたしは必死に思い留まるよう説得としたことを思い出したのです。それまでは無縁と思っていたキリスト教が、実は案外身近にあったことを思い起こされました。神様は、そうしてこのわたしを徐々に、しかし確かに救い主イエス・キリストへと導いて下さっていたのです。
このみ言葉は(ヨハネによる福音書12章35-36節)、クリスチャン作家の三浦綾子さんの自叙伝「光ある内に」のタイトルに用いられています。「光」と「暗闇」というコントラストの強烈なイメージでもって、分かり易くイエス・キリストの救いを教えてくれています。ここで「光」とは、イエス様ご自身のこと、そのお方による救いをあらわします。「暗闇」とは、私たちをキリストから引き離す罪とその結果としての死と滅びを指します。
私たちの生きているこの社会は、一見穏やかで明るく平和そうに見えますが、一皮めくるとそこには罪の暗闇が渦巻いている、とても危険で物騒な世界なのです。甚大な自然災害を始め、凶悪な犯罪事件、さまざまな依存症の患者さん、いじめ、セクハラ、パワハラなど例を挙げるまでもないでしょう。罪の暗闇が私たちを追いかけ、取り囲み、覆ってしまいます。しかしイエス・キリストは、「私が救いの光です、わたしの光を受け、それに照らされて生きなさい」と私たち一人一人に呼びかけてくださっています。真っ暗な闇の中を歩けばどうなるのか、もうよくご存じでしょう。一体どこに向かえば良いのか皆目判らず、それでも無理に進めば、穴に落ち込むか、けがをして命を失うこともあるのです。
イエス様の救いの光を受ける時、私たちはどの方に進めば良いのかよく分かりますし、又自分自身がどういう者かも気付けるのです。自分自身は、本当に弱く、心許なく、愚かな者なのです。けれどもイエス様はこのわたしと共にいて下さって私たちを正しい道に導いてくださり、この世のものによって動かされない確かな救いの岩に立たせてくださるのです。どうか「罪の暗闇に追いつかれないように、光のある内に歩きなさい。」このイエス・キリストの勧めの言葉を受け入れて下さいませんか。