2018年12月30日(日) 幼子に見る希望
おはようございます。松山教会の久保浩文です。
イエス・キリストの両親であるヨセフとマリアは、生後40日目のイエスをエルサレムの神殿に連れて行きました。親子は、神殿で二人の人に会います。
一人はシメオンです。シメオンは、聖書によると、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(ルカ2:25)と紹介されています。シメオンは私たちと同様に、夢を抱いた若い時も、がむしゃらに働いた壮年期も過ごし、様々な人生の喜怒哀楽を経験したことでしょう。
そして今は、人生の終わりを前に、毎日を神殿で祈りながら過ごしていました。彼は、聖霊から「主が遣わすメシアに会うまでは、決して死なない。」(2:26)とのお告げを受け、その日を待ち望んでいました。
もう一人は、アンナという預言者です。彼女は若い時に結婚しましたが、たった7年の結婚生活の後、夫と死に別れ、未亡人となり、今はもう84歳になっていました。当時は、女性、とくに未亡人が一人で生活することには、多くの困難を伴っていました。これまでの人生を振り返って、アンナの方がシメオンよりも多くの辛い経験をしてきたことでしょう。それでも彼女は、神を信じ、神と共に歩む毎日でした。
この高齢の二人に共通することは、これまでの人生の中で、いかなる境遇の中におかれても、その時その時を神に信頼して生きてきた、ということです。自分たちを母の胎内から生まれさせて下さり、人生の全ての時を導いて下さった神に全てを委ねる生き方です。それは、いわゆる人生に対する諦め、こういう運命だから仕方ない、といった消極的な生き方ではなくて、むしろ、これからの人生を積極的に希望と喜びをもって生きる生き方です。
ある時、聖霊はシメオンに、両親によって神殿に連れてこられた幼子が約束のメシア、救い主であることを示しました。シメオンは、幼子を腕に抱いて神をたたえました。この幼子から出る救いの光が、人生の暗闇の中に生きている人々、重荷を負っている人々に、生きることの喜びと平安を与えてくれることを予見したのです。
彼は「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(2:29-30)と現在の心境を言葉にしました。彼が腕に抱いた幼子は、神の子イエス・キリストです。私たちの手の届かないところにおられる神ではなく、私たちと同じ姿で生まれ、成長し、人としての悩み苦しみも経験して下さる神です。シメオンは幼子イエスをその目で見ることによって、これまでの彼の人生の様々な重荷、労苦からの解放だけでなく、神が自らの傍らにあり、共にいて下さることが分かったので「安らかに去ることができる」と告白することができたのです。
イエス・キリストはインマヌエル(我々と共におられる神)として来られ、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)と約束してくださいました。私たちも、共にいて下さる神の御手に委ねて、真の平安と慰めの中で地上の生涯を全うしたいと思います。