2018年12月23日(日) 神に栄光、地に平和
おはようございます。松山教会の久保浩文です。
イエス・キリストの誕生の知らせを最初に知らされたのは「羊飼いたち」でした。「羊飼い」という言葉から私たちが脳裏に思い描くのは「牧歌的かつ平和」な光景です。イエス・キリストの先祖であるダビデ王も羊飼いの出身でした。
しかし、1世紀すなわちイエス・キリストがお生まれになった頃のイスラエルでは、「羊飼い」は様々な差別と偏見の中に置かれた職業であり、社会の最底辺にいる人達でした。「羊飼い」は、昼夜を問わない極めて過酷な労働であっただけでなく、動物を扱い、青草を求めて移動するので、神を礼拝することができませんでした。そのため彼らは、神から最も遠い存在として、偏見を持たれていたのです。このような羊飼いの元に神は天使を遣わされました。
天使は言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(11節)
羊飼いたちが抱いた「大きな恐れ」は「大きな喜び」へと変えられます。イスラエルの民が待望してきた救い主、メシアは、まさに「今日」という日に生まれられたのです。
天使に天の大軍が加わり、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(14節)と神を賛美しました。平和とは第一に、神との平和です。イエス・キリストの降誕から十字架の死に至るまでの生涯の全てが、神と私たち人間との間に平和をもたらしました(ローマ5:1)。私たちはキリストによって神と和解をし、神との交わりが回復して、神に祈ることが出来るのです。
第二に自分自身との平和です。私たちは、神によって造られた作品(エフェソ2:10)であり、神の目には値高く、尊い器です(イザヤ43:4)。神によって造られた自分の長所も短所も含めて全てが、神によって愛されていることを受け入れて自分自身を愛することが出来るようになることです。
第三に他者、隣人との平和です。私たちは神の愛が、自分と同様に他者にも及んでいることを覚える時、他者も神の目には尊い、かけがえのない存在として受け入れることが出来るのです。力ある者が弱い者を支配し、厳しく矛盾に満ちた世界にあって、神の愛を知り、満ち足りた者のみが他者の敵意、悪意に対して愛をもって応えることが出来るのです。「御心に適う人」とは、神の眼鏡にかなう人の事ではなく神が自由かつ一方的に選び、善意の対象として下さった人のことです。
羊飼いたちは、天使に示された通り「メシア、神の御子」を探し当てて礼拝をしました。そして彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰って」行きました。彼らは元の仕事、羊飼いに戻りました。彼らの置かれている厳しい現実、差別と偏見は変わりません。
しかし彼らは自分たちが神によって捉えられていること、神の愛の眼差しが注がれていることを知ったのです。彼らは今後、いかなる状況の中にも「主なる神」を覚え、神との交わりの中で生きていくことでしょう。ここにクリスマスを覚える意義があります。私たちは決して孤立無援なのではありません。「わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。」(イザヤ41:9〜10)と聖書で約束されています。