2018年11月25日(日) 義のために迫害される人の幸い
おはようございます。高知教会の小澤寿輔です。
今月は、イエス・キリストの「山上の説教」の「八つの祝福」に聴いています。今朝は、八つ目の祝福についてです。マタイによる福音書5章10節から12節をお読みします。
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
この祝福の言葉は、前の七つの祝福の言葉に比べて、ある特徴が見られます。それは、初めは「義のために迫害される人々は、幸いである」とか「天の国はその人たちのものである」と、前の七つの祝福と同様に3人称を用いて語られているのですが、後半に入ると「あなたがたは幸いである」と2人称を用いて語られ、目の前の相手に向かってより親しく語られているということです。迫害される人々を一般化して「こういう人々は幸いである」と論じておられるのではなく、「今迫害されているあなたがたこそ幸いである」と、目の前の人たち、さらには、現に今、迫害を受けている私たちに向かって語っておられる言葉なのですね。そう思って見つめてみますと、今朝の言葉は、現代を生きる私たちに、大きな慰めと、励ましと、勇気を与えてくれる、力強い言葉であることが分かります。
ところで、「義のために迫害される人々」とは、どういう人たちのことを指すのでしょう。まず、私たちの救い主イエス・キリストへの信仰のゆえにののしられ、迫害される人々、ということです。次に「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」人たちです。自分の罪や咎のゆえではなく、自分の身は潔白であると証明できるのに、不正にののしられる、ということです。
本来、迫害されるというのは、決して嬉しいことではなく、辛いことです。イエス・キリストはそれを敢えて「幸いである」と言われ、さらには「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われています。それも「迫害にも拘わらず嫌々ながら喜ぶ」のではなく、「迫害のゆえに喜びなさい」と教えておられるのです。「迫害されたら喜べ」というのは、実におかしな話だとは思いませんか。なぜそのようなことをイエス・キリストは言われるのでしょうか。
今日、私たちがクリスチャンとして信心深く生きようとすればするほど迫害を受けるのは、どうしても避けられません。キリストを尊ぶ者は侮辱され、キリストの愛と赦しを実行する者は嘲笑されます。あなたにも、イエス・キリストを愛するがゆえに、学校で、近所付き合いの中で、あるいは家族から「こんなことを言われた、あんな酷いことをされた」という苦い経験があるかもしれません。
正直に働こうとするクリスチャンは、「お前は、嘘も方便という言葉を知らないのか」、「お前のようなバカ正直な奴に大切な仕事を任せるわけにはいかない」と、職場で迫害される経験があったかもしれません。しかし、そういうとき、イエス・キリストがあなたを世に対してキリストの証人として立てようとしておられるのです。あなたはそのとき、神の栄光のために用いられているのです。
確かに、ある種の迫害を受けることがあるかもしれません。しかし、そのようなとき、私たちは孤独ではないのです。イエス・キリストの霊が、あなたと共にいてくださるのです。信仰のために苦しむときこそ、キリストを最も近くに感じるときなのです。旧約聖書に登場する預言者たちも、同じ道を歩んだのでした。そして、闘いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜いた人には、天国で「大きな報い」が用意されていると、イエス・キリストは約束してくださいます。だから、「義のために迫害される人々は、幸い」なのです。