2018年11月18日(日) 平和を実現する人の幸い

 おはようございます。高知教会の小澤寿輔です。
 今月は、イエス・キリストの「山上の説教」の「八つの祝福」に聴いています。今朝は、七つ目の祝福についてです。

 マタイによる福音書5章9節をお読みしましょう。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

 まず、「平和」とはどういうことを指すのでしょう。私たち日本人は「平和」と聞くと、「争いが無い」「戦争が無い」ということを想像するかもしれません。旧約聖書はもともとヘブライ語で書かれましたが、ヘブライ語の「平和」と訳される言葉は「シャローム」です。「シャローム」とは、平和は平和でも、「争いが無い」という消極的な意味ではありません。「シャローム」は、人間の最高の幸福を作り出す、すべての善きものを意味します。

 ユダヤ人は、今日でも「シャローム」と挨拶します。それは、相手の人に悪いことが起こらないことを願うだけでなく、すべての善いことが起こるようにと願うことなのです。「シャローム」とは、すべての心配事が無くなることではなく、すべての幸福を楽しむことなのです。このように積極的な意味を持っているのがシャローム、平和、です。

 イエス・キリストは「平和を実現する人々は、幸いである」と言っておられます。幸いな人は、平和を「愛する」人ではなく、平和を「作り出す」人です。平和を作り出すことは、大変勇気の要ることです。なぜなら、自分の身の周りに何か誤ったことがあるときに、その状況を直そうと一歩を踏み出そうとすれば、不愉快な状況が生まれるかもしれませんし、面倒なことになるかもしれないからです。それゆえ、人々は「平和のため」という口実で、心を痛めつつも「何も言わず、何もしない」ということがよくあります。人々は、その誤った状況を見て見ぬふりをして継続させてしまうことがよくあります。

 イエス・キリストが祝福される「平和」とは、問題を回避することではなく、問題に直面し、それと取り組み、それを克服することによって生まれるのです。イエス・キリストに祝福される人々は、平和を「実現する」ために、不愉快なこと、困難なこと、面倒なことに直面する用意のある人々です。身を乗り出して、割り込んで、積極的に対処して「平和を作り出す人」です。そのために、自分自身が苦労し、犠牲を払うこともあるかもしれません。けれども、平和を作り出すために、それをも覚悟する人々が祝福されるのです。

 しかし、「平和を実現する」ということほど難しいことが、いったい誰にできるのでしょうか。平和は自分で作り出せるものではありません。平和は、神の教えと神の力によってでしか作り出すことはできません。

 人の争いの根源は、罪にあります。「神に背いている」という神と人との敵対関係から、すべての不和と悲惨が生じているのです。そこで、イエス・キリストが、罪のために神の怒りに触れて死んでいた私たちの救い主となって、神と私たちとの間に和解をもたらし、私たちを神との平和に入れてくださいました。

 あなたもクリスチャンとなり、この神との平和に与ったとき、神の愛と憐れみと犠牲がどれほど大きなものであるのかを知らされ、感動したのではないでしょうか。このように、平和の主なる神によって、またイエス・キリストによって、私たち自身がまず神と和解しなければなりません。より多くの人が神との縦の関係において平和が実現すると、今度は、地上で人と人の横の関係において平和が実現するのです。

 私たちは、自分の手で敵の心を和らげ、争いを鎮めることはできません。けれども、人々を神のもとに連れて行き、神との平和に導くことで、地に平和をもたらすことができるのです。それが「平和を実現する」「幸いな人」であり、「神の子」なのです。人々と神との関係が平和になるようにと祈り求めるキリスト教会とその信者こそ、まことの平和を作り出す者なのです。