2018年11月4日(日) 憐れみ深い人の幸い
おはようございます。高知市上町4丁目にあります日本キリスト改革派高知教会の小澤寿輔です。今朝、共に聖書の言葉に耳を傾けることができ、とても嬉しく思います。今週から連続で、イエス・キリストの「山上の説教」の「八つの祝福」に聴きたいと思います。
今朝は、五つ目の祝福についてです。マタイによる福音書5章7節をお読みします。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
「憐れみ深くありなさい」という教えは、新約聖書の中にその全体を貫く教えとして示されています。新約聖書は「赦されるためには、赦さなければならない」と何度も主張しています。イエス・キリストは次のように言われます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6:14-15)。このように、憐れむ者だけが憐れみを受けるというのは、新約聖書の一貫した教えなのです。しかし「山上の説教」における祝福の教えには、それ以上の意味が込められています。どういうことでしょう。
まず、この「憐れみ」とは何なのでしょう。第一に、「憐れみ」は「外に向かう愛」です。それは、自己中心とは全く逆のものです。何でも自分のことが最優先という人は、「憐れみ」を自分の心に持つことはできませんし、生活の中で示すこともできません。「憐れみ」は、他の人の必要を満たすことが、自分の必要を満たすことよりも優先であると考える人の態度です。また、他の人の悲しみを自分の悲しみよりも痛切に感じるような人の態度です。第二に、「憐れみ」は「行動に現わされる」愛です。それは、ただ同情し哀れに思うだけではなく、生活の中で実際の行動として表されます。新約聖書は「神は世を愛された」と言い、そこで止まってはいません。神は、この世を愛してくださり「その独り子をお与えになった」と言っています(ヨハネ3:16)。この憐れみは、「助けたい」という願望だけでなく「助ける」という行為が伴います。
では、どういう人が「憐れみ深く」なれるのでしょう。まず、人は、自分の努力によっては、決して憐れみ深くはなれません。自分自身が憐れみを受けた人でなければ、人に憐れみを注ぐことはできません。神と自分との関係を見てみましょう。私たちは、自らの罪のゆえに当然罰を受けるべき存在でした。けれども、神が憐れみを私たちに注いでくださったので、私たちは赦されました。これを体験した人でないと、人に憐れみを注ぐことはできません。クリスチャンとは、神の憐れみを受けてキリストのものとされた人のことを指します。その受けた憐れみをしっかりと噛みしめて、はじめて自分も憐れみに生きることができるのです。
私たちはどのようにして「憐れみ深さ」を実践すれば良いのでしょう。聖書には、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とあります。「憐れみ深い」とは、他の人の立場に立ち、その人の目をもって見、その人の思いをもって考え、その人の心をもって感じることです。一人の人がなぜそのようなことを考えるのか、なぜそのような行動を取るのかは、その人なりの理由があるはずです。そして、その人の思いと心の中に入って行くことによって、私たちはその人が考える理由を理解することができるようになり、寛容になり、赦すことができるようになります。
けれども、そのようなことは、そう簡単にはできません。なかなか人に憐れみ深くなれない、というのが現状なのではないでしょうか。そういうときには、この憐れみの究極的な真理を思い出しましょう。憐れみがこの上もなく示されたのは、イエス・キリストにおいてです。イエス・キリストにおいて、神は文字通り、私たちと同じ立場に立たれ、私たちの目をもって物事をご覧になり、私たちの思いをもって物事をお考えになり、私たちの心をもって物事を感じ取られました。このようにして、神なるイエス・キリストが、完全に人間の罪と悲しみと苦痛を経験され、人間の立場に立って考えてくださったのです。
なかなか憐れみ深くなれないと落胆しそうになるとき、イエス・キリストを見上げましょう。神の人間に対するこの上ない憐れみに心を寄せ、祈ることによって、あなたも憐れみを実践していくものとなりませんか。