2018年9月16日(日) 苦しむ者の神への叫び
おはようございます。南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。
詩編22編は次のような言葉で始まっています。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」
これは主イエス・キリストが十字架上で叫ばれた言葉です。またこの言葉だけでなく、詩編22編のいくつかのことは主イエスの十字架の苦しみにおいて実現しました。
7節から9節にはこうあります。
「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。』」
十字架につけられた主イエスを見た人々は、このように主イエスを嘲ったのでした。
また19節には「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」とあります。そしてその通り、ローマの兵士たちはくじを引いて主イエスの服を分け合いました。
このように、この詩編22編は主イエスの十字架において実現したものとして読むことができます。主イエスが十字架上で味わわれた苦しみは、何よりも神から見捨てられるという苦しみでした。
2節、3節。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」
主イエスはあの十字架において、神の沈黙を経験しました。いつもそばにいてくれた「わたしの神」が、自分から離れ、救ってくださらない、呻きの言葉を聞いてくださらない。呼び求めても答えてくださらない。その神の沈黙ほど、恐ろしく、苦しいことはありません。
しかし、主イエスはそこで神に絶望し、神への信頼を捨ててしまったのではありません。苦しみの中でも「わたしの神よ、わたしの神よ」と呼びかけ、叫ぶことは神様への信頼に基づいています。この詩編22編でも神への信頼が繰り返し言い表されています。
5節では「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。」また11節では「母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。」と言われています。そのような神に祈るのです。
12節「わたしを遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。」20節「主よ、あなただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。」
そして23節からは、その祈りに神が答えてくださったことに基づいて、神への賛美が語られていきます。25節には「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」とあります。
一時、祈り求めても答えられない、そのような神の沈黙を経験したとしても、神様はずっと沈黙し続け、御顔を隠し続けておられることはありません。必ず苦しむ者を心に留め、その叫びを聞いてくださいます。
主イエスもまたそうでありました。十字架において苦しみ、神から見捨てられたように思われた主イエスを、神は復活させられ、ご自分の右の座にあげられたのです。
わたしたちも苦しみを経験しますが、その苦しみは主イエスが既に十字架において味わってくださったものです。そしてわたしたちが苦しみの中から助けを求める叫びを、神様は必ず聞いてくださいます。
そして27節で「貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します」と言われているように、やがては神様を心から賛美する者へと変えられるのです。