2018年7月8日(日) 命の言葉・聖書
おはようございます。平和の君教会の山下です。
2年前から自治会役員に選ばれ、同じ自治会組織の青少年健全育成の方と一緒に月に1〜2回、夜間のパトロールに同行しています。つい先日は、その青少協のリーダーを長らく務められた方が、田舎に戻られる最後ということで、ご一緒させて頂きました。行く先々、コンビニや無人駅で、かつてはやんちゃだった兄ちゃん、姉ちゃんがぞくぞくと集まってきて、別れを惜しむ場面に出くわす機会が与えられました。
かつてこの広島市北部は暴走バイクが爆音を鳴らし、道路を蛇行運転をして、私も広島に来たての頃、よくからまれた経験がありますが、夜な夜な公園やコンビニ、陸橋の下等でたむろする中学生・高校生が大勢いて騒然とした地域だったようです。そうした夜徘徊していて声をかけられ、時には追掛けられていた若者が、今ではサラリーマンや主婦、お店などを経営するまでに立派に成長しています。彼らの成長ぶりに、そのリーダーの方の長年の労苦と熱心の実りを私は見ることが出来ました。隣の人は何する人ぞと、無関心と無責任を装うこの現代ですが、そうした熱いハートを持ったおじさんたちがいることを是非知って頂きたいと思います。
今朝、お読みしましたみ言葉(ヨハネ5:39-40)は、当時の聖書の専門家であった律法学者やファリサイ人に向けてお語りになった主イエス・キリストのお言葉です。彼らは、とても熱心に聖書を読み、研究し、又それを実践していました。彼らの博学、研究熱心、またそれに従うきまじめな生き方は、とても今日のクリスチャンの比ではありません。
しかし彼らは、その最も中心のハートを失っていたのです。何故なら神様が私たちのためにお遣わしになられた救い主、イエス・キリストを抜きにした聖書の読み方、解き方、従い方だったのです。それは無益というよりも、真の救いへと導かないこととなって有害でさえあると言えます。
神様は、私たちのためにこのお方こそが真の救い主であり、このお方によらなければ、私たちに救いはないと証言しておられます。今日のように状況証拠や科学捜査をすることの出来ない昔において最も有力な証拠は、それを目撃した人の証言によります。聖書には、そうした証言や証人を見る事が出来ます。
例えば、主に先立って遣わされたバプテスマのヨハネがそうでした。彼は、自分の後に来る方こそ真のメシアであると証言しましたが、人々はそれを受け入れることをしませんでした。それで父なる神様が、このお方が救い主であることを様々な奇跡を持って、それをお示しになられました。聖書には、そうした主のなされた奇跡が多く述べられています。しかし一番大事なのは、聖書のみ言葉が、聞いているその人の内に留まって、生きて働くことによる聖霊による証言以上のものはありません。
普段私たちは、それをはっきりと聞くことは出来ないかも知れません。けれども、ここぞと言う大切な時に、それはしばしば苦しみの時、試練の時に、それがはっきりと聞こえてくることがあります。それは、日曜日の礼拝において語られる説教であったり、又日々み言葉に親しむ中で、また愛唱聖句であったりするでしょう。
必ずしもたくさんの聖書の知識や研究熱心がなくても、その人の根底にあって、その人を生かし支えてくれている、それが父なる神様があなたに、このお方が真の救い主であり、このお方と共に歩むことが永遠の命に至る道であることを証ししてくださっているのです。私たちもそれを大切にし、神のみ言葉に聞きつつ、主イエスと共に歩んでいきたいと思います。