2018年7月1日(日) 掛け替えのない一人
おはようございます。平和の君教会の山下です。
毎年、家内と共に夏の終わりに持たれる聖恵トリップ(ワークキャンプと言いましたが)に参加するのが私の楽しみです。その会場になっている聖恵会(以前の聖恵授産所)は、ご自身も重度の障がい者であった忠海教会牧師の故井原牧夫先生が、3名の障がい者の自立のためにタイプライター印刷を始めたのがきっかけとのことです。現在は入所者100名、職員100名の立派な福祉施設になっています。ここで流す汗はとても気持ちよく、そして居心地がとても良いのです。きっと一人一人が大切に受け入れられ、私たちキャンパーにも同じように接して下さるからではないか、と思うのです。
さてこのお話(ルカ15:4-7)は、迷い出た一匹の羊を羊飼いが探しに出かけ、それを見つけて大事に連れ帰るというたとえ話です。
羊というのは、近視で、方向音痴、加えてキバや鋭い爪など持っていません。もし群れから迷い出れば、自分では戻れませんし、オオカミや野獣の餌食になるだけです。だから羊飼いは必要なのです。
クリスチャンは、この羊を自分自身だと受け止めて、神様から迷い出たこの私を真の羊飼いであるイエス様が見つけて神様の下へと再び連れ戻してくださった、今なおしばしば神から離れる者ですが、そのように理解して感謝をもってこのたとえ話を聞きます。
しかしこれは、何もクリスチャンだけに限らず、私たち人間は迷いやすい者ですし、自分のことはよく分かっていると思いながら一番知らないのは自分自身ではないか、他の人から指摘されて気づくことも多々あります。
このたとえで大事なことは、所有者にとって、それは掛け替えのない価値や意味を持っている、その事に気づかせるのが狙いです。羊飼いにとってはたとえ何百匹いようとも、羊一匹一匹は掛け替えのないものであり、たとえ一匹がいなくなっても、それを探し求め、見つける迄は止めない、なんとしても見つけ出して連れ帰ろうとする羊飼いの意気込みや熱心とがここから汲み取れます。それほどに大切なものとしてみなされているからです。
実はこのたとえは、徴税人や罪人と呼ばれる人たちが大勢、イエス様のところに来てお話を聞き、食事を共にしていた。それを見た当時のエリートであるファリサイ人や律法学者たちが不平を漏らしたことからなされました。彼らから見て徴税人や罪人は神様の戒めを守れない失格者、社会の面汚しでしかなかったのですね。
それに対して自分たちは、神様の戒めをよく守っている神の国の祝宴に預かるのに相応しい者とみなしていた。ところがあんな奴はダメな者としていた徴税人や罪人をイエス様は喜んで迎え入れ、受け留めて下さって、神の国の祝宴に預かっているのを見てねたんだのです。
つまり神様は、当時の人達の見方や評価とはまったく違う視点や評価をお持ちになっておられるお方なのだということです。神様の戒めを守れるか守らないかではなく、イエス・キリストの償いによって、その一人一人の存在の価値を認め、それを受け入れて下さっておられます。何故なら、真の神様がこの世界と私たちを愛を持ってお造りになられた方であって、それ故に私たちは、一人一人掛け替えのない価値と意味とをもってこの世に置かれているからです。
この社会が、また自分自身どのようにみなそうとも、神様のお心は決して変わりませんし、しかもその神様の評価が一番正しく大事なことなのです。その神様の持たれる価値や意味を私たちも聖書によって知り、それを私たち自身の物差しとしていく時に、私たちは自分の存在の本当の価値や役割に気づかされ、生き甲斐と喜びとを持って生きていく者とされます。