2018年6月17日(日) 私の気持ちが分かるの?
おはようございます。高知県にある山田教会の牧師の高内信嗣と申します。
私たちは一人ひとり、感情を持っています。喜ぶこともあれば、笑うこともあります。その一方、悲しむことも多くありますよね。人間の気持ちというのは難しいものです。一人ひとりが抱えている気持ちは目には見えません。だからこそ、人の気持ちを理解することは難しいのではないかと思うのです。
自分の気持ちを理解されずに傷ついたことはないでしょうか。私は幼い時から、なにごとも不器用で人並みにものごとをこなすことが出来ませんでした。その時、「なんで君はできないんだ。」という言葉に傷ついたことを覚えています。
また逆にわたしたちは人の痛みを同情することができません。傷つき、苦しむ方に「なんでそんなことで苦しむの?」と思ってしまうことはないでしょうか。その人にとっての痛みを、自分の痛みの範囲の中で解釈してしまうことはないでしょうか。私たちはいつも、あの人はあんなことで苦しんでいる、このように思ってしまい、人の痛みを同情することができません。私たちは同情されずに苦しみ、同情できずに傷つける弱い存在であるということができます。
今朝の聖書の箇所(ヘブライ4:15)で、「イエス様はわたしたちの弱さに同情できない方ではない」と言われています。
国語辞典で「同情」と引くと「他人の気持ちや境遇を察し、かわいそうに思うこと。」と出てきました。しかし、聖書の言っているイエス様の「同情」とは、単に日本語の「同情」という言葉の意味に留まらない意味を持っています。聖書の語るイエス様の「同情」とは「共に苦しむ」という意味を持っています。従いまして、イエス様は私たちの弱さに共に苦しむことのできないお方ではない。確かに私たちの苦しみに寄り添って、苦しんで下さるお方であるということです。
主イエス・キリストの苦しみは、わたしたちの苦しみと違います。イエス様は神様の子でありながら、人々にあざけられ、当時最も過酷な刑である、十字架刑を受けて死んでくださいました。私たちよりもっと、もっと辛い所を、イエス様は通り抜けて下さったのです。だからこそ、イエス様は私たちの痛みを理解してくださるのです。そして理解してくださるだけでなく、共に苦しんでくださるお方です。
漫画家手塚治虫のブラック・ジャックという漫画に、痛みや傷を共有してしまう双子が登場する物語がありました。双子の一人が怪我をすると、もう一人の双子も怪我をする。痛みを共有してしまう。一人が痛むと、片方も苦しみだす。この物語はこの物語でとても深刻なお話なんですが、痛みを共有するという点で、私たちとイエス様との関係を表せると思います。
私たちが「もう、苦しい。心が痛い。」そう思うとき、イエス様も同じく、一緒になってその痛みを共有してくださっています。今もこの時、傷つき、苦しんでいるみなさん、お一人、お一人の痛みを、十字架の苦しみを通ってこられたイエス様が、一緒になってその痛みを苦しみ、支えておられます。